線路端のブログⅡ

高架化されても、高いフェンスに遮られても、やっぱり線路端が好き・・・。

’76年 四国・岡山の私鉄巡り旅 ー1-

 国鉄線路上から蒸気機関車が引退すると同時に鉄道趣味から遠ざかる方がいらっしゃる一方で、旧型電気機関車や旧型国電に次なるターゲットを求める方が多くおられたが、自分はローカル私鉄訪問に注力しようと考えた。その手始めに四国・岡山の私鉄駆け足旅を計画実行した。

【1976/9/16】

 早朝横浜を発ち在来線で小田原へ行き、小田原から新幹線「こだま」で名古屋に向かった。四国入りする前に名古屋周辺の私鉄も見て回ろうという魂胆であったし、小田原から乗車したのは特急料金をケチるためでもあった。

 名古屋から近鉄線に乗り込み、第一の目的地四日市近鉄内部線ホームに降り立つと、真新しいホームには近鉄マルーン色の古めかしい小型電車が待っていた。車内のロングシートに座ると対面の客と手が届きそうな車幅なのが新鮮だった。扉は手動、自分でガラガラと引いて開けるものだった。閉めるときも同様にガラガラと引き、ロックの爪を引っ掛けるものだった。

(内部)

 今回の旅は訪問する数を少しでも多くしたくて駆け足で巡ることとしていたので、終点の内部まで行き数枚スナップしただけで、四日市に戻ってきた。

 次に富田へ移動し、近鉄富田駅に入線した三岐鉄道線電車をスナップした。色もスタイルも地味な電車に見えた。

近鉄富田

 三岐鉄道には乗車することなく、次に桑名に向かい近鉄北勢線を訪ねる。北勢線の駅の西桑名はすぐ隣だった。

(西桑名)

 北勢線の乗車も省略し見るだけにして、名古屋に戻り岐阜へと向かう。岐阜までは名鉄線を味わうべきと思ったが、手元の周遊券でそのまま国鉄で向かった。岐阜に着き、名鉄岐阜市内線の徹明町交差点に行ってみた。

 ここでの目的は忠節方面行きで見られる流線形車両だったが、なんと数日前の台風のため、忠節方面はバス代行となってしまっており、電車の姿自体が見られなかった。そんなこともあって時間を持て余し、岐阜駅には予定よりも早く戻ってしまった。

 このあとの行程を思案していると急行「比叡」のアナウンスが入ったので、それに乗ることにした。

 今夜は夜行で瀬戸内海を渡り明日は、四国入りをする計画だ。四国方面は数日前の台風の被害が出ているらしい、この先が気がかりなので時間繋ぎに降りた京都駅で四国内の様子を訊いてみた。

 予讃線が今夜0時、土讃線が翌日開通とのことでひと安心、河原町四条まで市電でちょこっと往復してみた。さすがに夜のスナップは出来なかった。

 四条河原町交差点では京阪特急の巨大な看板があった。如何にも速さを訴えている看板に気を取られてスナップした。

 今回アップに際し、やっと気づいたことがある。この場所は阪急電車四条河原町駅の真上であり、それに対抗して京阪電車が「俺こそが大阪に中心街にアクセスしれるぞ!」と訴えていることに。(その割には、矢印の方向四条大橋まで歩いてくれと促しでいるが。)

 京都から新大阪に向かい、急行「鷲羽」に乗り込んだ。明日未明に瀬戸内海を渡ることになるのだ。

 

あれから50年 鉄道100年

 今年は鉄道開業150年。ついこの間に100年を迎えたと記憶する身には「あれから50年か」と感慨に耽ってしまうが、あの時の盛り上がりうねりには程遠い静かな鉄道150年だなと思っている。

 

 1972年の鉄道シーンと言えば、関東地区の蒸気機関車は1970年に既に消えており、この時点で蒸気機関車が生きているのは近いところでも中央西線などと言ったところだった。勿論、九州や北海道へ足を伸ばせばまだまだ多くの蒸気機関車に出会うことは出来たが、泊りがけの撮影旅行をしたことが無い、と言うか旅行しようにも親の許しが無い身には、地元や近県の電車や電気機関車を年に数回撮影するのが関の山で、鬱々としたテツを送る日々だった。(「今、行かなくたって大きくなればいくらでも行けるのだから」との母親の声に、『今、行かなきゃ蒸気機関車が無くなってしまう』と言うに言えない自分だった。)

 

 そんな折、降って沸いたのが鉄道100年記念イベントとしての蒸気機関車牽引列車の運転の知らせだった。そして意気揚々と10月の毎週末、千葉へ、八高線へ、横浜へと繰り出したのだった。

 あの心沸き上がる興奮は50年経った今でも鮮明に蘇って来る。カメラは親父の借り物であり稚拙なスナップしか残っていないが、思い出を辿ってみたい。

 

【1972/10/1】

 千葉~銚子間に梅小路入りを間近に控えたC571が走る日。往路は総武本線、復路は成田線経由となっていた。撮影地としては僅かばかりの知識から佐倉駅から南酒々井への田んぼを選んだ。

 夏に開業したばかりの総武快速線に乗って東京地下ホームから千葉へ、千葉からキハ45に揺られて佐倉に着き、通過時刻のかなり早い時間に田んぼのあぜ道に場所を取った。周囲にギャラリーはまだ少なかった。

 そろそろ通過時刻となったころ、遠くから構えているという人から「そこは入るからどけ!」と追い払われてしまった。背後の土手に回るしかないが、そこは既に満員の状態で割り込むことも出来ず、線路から離れた端っこに立たざるを得なかった。横浜の自宅から初電に乗って遥々来たのに悔しかった。

(佐倉-南酒々井) ピカピカのC571が颯爽と通過する。

 午後の撮影は成田線内に足を伸ばす余裕も知識もなく、成田駅から北方に歩いたあたりの跨線橋に構えた。成田線に平行して新空港建設工事のために敷設された線路があり複線区間のようにも見えた。

 成田到着を控えたC571がスルスルッとやって来た。眼下を通過すると「おやっ」という光景が目に入った。なんとテンダに人影が!しかも目立たぬようにと背を屈めているではないか!

 腕章をしているところから見ると乗務員氏だろうか。往路の乗務員が復路は便乗兼石炭整理要員だった?など勝手な推測をしてしまう。

 

【1972/10/8】

 この日は八高線の運転日。高崎発と八王子発の2本が運転され、途中の高麗川で2本の蒸気機関車牽引列車が対面するという。心憎い演出が控えていた。

 横浜線の73形で八王子へ、キハ20の八高線に乗り換えて毛呂に着いた。高崎発の列車が毛呂の田園地帯をスルスルッと通過する様子を見届けてから高麗川に戻った。

 八王子発の列車も高麗川に着くとホームだけでなく、構内もギャラリーで一杯になった。高崎発はD51498でテンダに大きな重油タンクを載せていた。八王子発は初めて目にする1000番台の1002号機で角型ドームだった。

高麗川)八王子行き(奥)と高崎行き(手前)との交換。

 線路に降りるのはどうかと逡巡していたけれど、整然とした区画が出来ていたので行ってみた。お蔭でスッキリとした写真が撮れた。(完全逆光だけど)

高麗川東飯能ランボードの白線も凛々しいD51498の姿。

 高崎発の列車の発車を捉えようと、高麗川駅東飯能方に移動した。そこは2年前の中学の春休みにも訪れた場所であり、豪快な登坂シーンが見られるかと期待していたが、ギャラリーがどんどん増え始め、しかも築堤上に登る輩が多数出て来る始末。列車も安全を考慮してかソロリソロリと弱々しい煙で通過して行った。

 

【1972/10/14】

 第三弾目は横浜を蒸気機関車が駆け抜ける日だった。機関車はC57の7号機で紀伊田辺からやって来たという。折角なので地元鶴見で、なるべく人が少ないであろう場所で撮りたいと考えた。

 高島貨物線が鶴見線をくぐるあたりの花月園前の踏切から入った場所に来た。D51が元気だった頃に何度かスナップした場所だったが、2年ぶりに来てみて様子が変わっていた。なんと線路際に雑草が生い茂っていた。今更場所を変える時間的余裕はなく、国鉄旗をはためかす機関車と、赤帯を巻いた客車の足回りが見えないままのスナップとなってしまったが、そんな場所なので勿論ギャラリーは少なかった。

 紀伊田辺区では集煙装置装備だったため短い煙突が残念な姿となったC577。

 

 列車折り返しの際、横浜機関区でC57が休むということで、横浜機関区に急いだ。ここに来るのも2年ぶりだった。転車台に乗るC577を一目見ようと周囲は多くのギャラリーで賑わっていた。

(横浜機関区)

 転車台の周囲は、さながらモデル撮影会の様相だった。

 D51が健在だったころ、何度か訪れたここ横浜機関区であるが、扇形庫をスナップすることはなかった。庫内にD51の姿を見ることが無かったためと思うが、この日のカットが貴重なものとなった。

 

 復路の撮影も馴染みの場所でと考えて、鶴見~川崎間の古市場踏切とした。すっきりとした写真が撮れる好きな場所で自宅から自転車でよく通ったものだったし、これまでここで御同業の姿を見ることは無かった。

 少し早めに現地に着いた。やはり御同業の姿は無かった。半逆光を浴びて東海道本線を上ってくるC57の姿を期待した。

 ところが通過時刻が迫るにつれて様相が一変する。なんと近所の子どもやおじちゃんおばちゃんが柵を乗り越え、京浜東北線の線路内に乱入して来たではないか!

(鶴見-川崎)

 線路脇でカメラを構える自分にとって、それはとても悔しくそして嫌な情景だった。自分は心中穏やかで無くなってしまい、考えていたポイントの遥か前でシャッターボタンを押してしまったのだった。幸いにも東海道線京浜東北線の緊急停止はなかったと記憶している。

 

 八高線や横浜の運転は数日間行われたはずだが、なぜかこれらの日だけの撮影で終わっている。

 親の目を気にして連日出かける意思や気力が乏しかったのか、鬱々とした50年前、高校2年生の10月の思い出だった。

 時刻表72年10月号を開くと、全国での記念きっぷ発売が予告されている。まさに日本全国がお祭り騒ぎだったようだ。(ああ、あれから50年)

釜石線のキハ

 釜石線普通列車にはキハ100が、快速列車にはキハ110が使われているようです。共に同じ塗装で判別し難いですが、並んでいる姿を見るとキハ100の車長が16mと短いことが判ります。

 単行の666D花巻行きが遠野駅に進入です。後ろに見える古レールを使用した跨線橋は緩い孤を描いていて優美ですね。

 その666Dを追ってカメラを振り向けると、遠野駅構内には既に快速「はまゆり3号」3623D釜石行きが入線していました。快速の先頭車はキハ110のファーストナンバー。

 この時、1番線に普通花巻行き、2番線に快速釜石行き、そして画面には写っていませんが3番線にSL銀河が停車しています。遠野駅の2面3線が同時に埋まるという佳境のひと時です。

 釜石線の車窓で異彩を放つのが陸中大橋駅構内のコレ。かつてここは鉄鉱石の積出しで賑わっていたとか、当時の積出し用のホッパーが遺構となっています。

 上りSL銀河とこの快速3621Dの交換待ちでのスナップですが、トンネルの上にはSL銀河の発車を撮ろうとするカメラマンの姿が見えますね。

(2022/9/3,/4)

 

釜石&遠野

 釜石の宿は駅の隣だったので、夜になってスナップしに行ってみた。しばらくぶりの釜石駅はひっそりしていた。

 初めて下車したのは40数年前のこと。改札口を出たら目の前に大きな工場が控えていて、「何だ!まるで鶴見線の風景じゃないか!」とある意味で落胆したことを覚えている。それから30数年後、三陸鉄道南リアス線の震災からの復活開通記念の日の、駅前の賑わいが目に浮かぶ。

 釜石は三陸鉄道との共同使用駅、というかそもそもは釜石線と山田線の接続駅。花巻方・宮古方には出発信号機が立っている。4機の赤色信号機が灯る中、宮古方から三陸鉄道線が到着した。

 程なくして単行の釜石線が発車して行く。乗客はご覧のとおり・・・、淋しい。

 「SL銀河」は遠野で大休止する。下りは1時間20分ほど、上りでは2時間弱。手元のキップ(この日は団体なので座席番号票)で改札口を通り抜けることが出来る。

 駅周辺を散策してみた。観光地としての賑わいを想像していたが、人通りは少なく寂れた地方都市の感だった。ただ、古い佇まいの商店を多く見かけることができ、ノスタルジーを呼び起こす材料がそこここにあった。

 散策と食事をし遠野物語の昔話を聞いて駅に戻ると、堂々とした駅舎が迎えてくれた。そろそろ上り列車の発車時刻だ。

 改札口を入り跨線橋を渡って「SL銀河」の待つ3番線へと向かう。架線の無い駅構内の情景にほっとする思いだ。

(2022/9/3,/4)

 

シゴハチのキャブ添乗

 今回参加したのは「SL銀河プレミアムツアー」と銘打ったものでした。

 新花巻~釜石の往復乗車の他に、釜石にての転車台見学、運転席に乗っての構内走行、検修庫の見学という盛りだくさんの内容です。これは貴重な体験と思い旅行代金を奮発しました。(笑)

 制帽とナッパ服の上着を貸与されての添乗となります。このナッパ服は乗務員の使い勝手が良いように、盛岡版とも言うべき独自仕様の個所があるとの熱い説明もありました。

 助士席に座らせていただき、計器類の説明や始動・制動の操作方法、そして石炭をくべる動作も間近に拝見。

「発車の合図はご自身に依る汽笛吹鳴とします。」との嬉しい一言があり、1回練習したあと「心を込めて」(笑)逆T字形の引手をグイッと引くと「発車ぁ!!」。

自分の手に依る汽笛が釜石の街に響くのは感動ものでした。

(ついつい、「定時!」とか「後部オーライ!」とか言ってみたくなる気分です。)

 添乗は二人一組での順番となるので、待つ間は発車の雄姿をスナップして過ごします。この日は雨模様が幸いし、見事なドレンが立ちのぼりました。

 全員の添乗が終わったあとも撮影会。尾灯をつけたり、ドレンを盛大に上げたりとサービス満点。現場の皆さんからは親切丁寧そして熱い説明をいただき、聞き入ってしまいました。

 翌朝は出庫点検の様子や給炭作業を見学させていただきました。

 日々の検修や運転のご苦労や、復活後のこれまでの取り組みなどのお話をお聞きするにつけ、来春での運行取り止めになることで、築き上げた技能の伝承が途絶えてしまう危惧を持ってしまいました。

(2022/9/3・/4)

 

SL銀河ツアー

 来春での運行取り止めが告知されている「SL銀河」ですが、これまで乗ったことはなく、撮ったのも8年ほど前に観光旅行のついでにチラリとスナップしただけでした。

 引退までのうちに是非乗ってみたいと思っていたところ、1泊2日での往復乗車のツアーをみつけて参加して来ました。

 この列車はご存じのとおりキハ141系を客車に見立てたもので、DCとC58との協調運転を行っています。運転席には乗務員が居てC58乗務員との無線連絡で力行や制動の操作をしている様子が見られます。

 客車に見立てられたキハ141系はJR北海道から譲受されたもの。元ををただせば50系客車です。レトロ調に改装された車内ですが、座席下(窓下)に目をやると懐かしき蒸気暖房を思い起させるコレがありました。

 新花巻から釜石まで、途中5~10分の停車を繰り返しながらのんびりと旅が続きますが、遠野では1時間半ほどの大休止。多くの乗客が駅前に繰り出しての観光をしている中、機関車をゆっくり観察。砲金製の区名札とその受け口は格調ありますね。来春での運行取り止めとは言うものの、機関車の検査は昨年6月に終えたばかり、さてその去就は如何に。

 その遠野での大休止ですが、機関車は一旦切り離されて十数メートル前進し、跨線橋下に移動します。

 跨線橋の真下では給水作業と、このようなテンダ上での石炭の整理が行われていました。かつてホーム先端でその作業を見上げたことはありますが、上から眺められるのは貴重かも知れません。作業員の方は安全ベルトを締めそのワイヤーが繋がっていました。(今の時代ですね・・・)

 途中停車の度に客車(DC)や機関車の前では、乗客の皆さんの記念撮影が繰り広げられますが、ここ上有住では機関車はホームを過ぎて停車。周囲の緑一色の風景がテンダに映り込んでいました。車窓は遠野盆地から仙人峠越えへと変わります。

(2022/9/3)

 

東京アドベンチャーライン

 3年ほど前からでしょうか、青梅線の青梅~奥多摩間に「東京アドベンチャーライン」というキャッチコピーが添えられています。

 青梅線に乗って「自然に親しみアウトドアを堪能してくだいね」ということのようです。233系4両編成1本にラッピングが施され、目を楽しませてくれています。

4両編成は主に青梅~奥多摩間の運用に充てられていますが、時折、立川~青梅間の6両+4両の編成に充てられることもあります。

小鳥や小動物があしらわれたラッピング。

 一歩車内に入ると、小さなお子さんが喜びそうなイラストが溢れています。「また、これに乗りた~い」と言われるかも知れませんね。

吊り手にも小さなロゴがありました。

窓にもこんなイラストシールがありました。

 

 以前にあった201系改造の四季彩ほどの外観上のインパクトがあれば被写体になると思うのですが、この程度では遠目には一般車との区別が付きません。よって「これを撮りに青梅線へ」とは成りにくいですが、暇つぶしに乗る分には楽しいかも。

(2022/8/23)