線路端のブログⅡ

高架化されても、高いフェンスに遮られても、やっぱり線路端が好き・・・。

あれから50年 鉄道100年

 今年は鉄道開業150年。ついこの間に100年を迎えたと記憶する身には「あれから50年か」と感慨に耽ってしまうが、あの時の盛り上がりうねりには程遠い静かな鉄道150年だなと思っている。

 

 1972年の鉄道シーンと言えば、関東地区の蒸気機関車は1970年に既に消えており、この時点で蒸気機関車が生きているのは近いところでも中央西線などと言ったところだった。勿論、九州や北海道へ足を伸ばせばまだまだ多くの蒸気機関車に出会うことは出来たが、泊りがけの撮影旅行をしたことが無い、と言うか旅行しようにも親の許しが無い身には、地元や近県の電車や電気機関車を年に数回撮影するのが関の山で、鬱々としたテツを送る日々だった。(「今、行かなくたって大きくなればいくらでも行けるのだから」との母親の声に、『今、行かなきゃ蒸気機関車が無くなってしまう』と言うに言えない自分だった。)

 

 そんな折、降って沸いたのが鉄道100年記念イベントとしての蒸気機関車牽引列車の運転の知らせだった。そして意気揚々と10月の毎週末、千葉へ、八高線へ、横浜へと繰り出したのだった。

 あの心沸き上がる興奮は50年経った今でも鮮明に蘇って来る。カメラは親父の借り物であり稚拙なスナップしか残っていないが、思い出を辿ってみたい。

 

【1972/10/1】

 千葉~銚子間に梅小路入りを間近に控えたC571が走る日。往路は総武本線、復路は成田線経由となっていた。撮影地としては僅かばかりの知識から佐倉駅から南酒々井への田んぼを選んだ。

 夏に開業したばかりの総武快速線に乗って東京地下ホームから千葉へ、千葉からキハ45に揺られて佐倉に着き、通過時刻のかなり早い時間に田んぼのあぜ道に場所を取った。周囲にギャラリーはまだ少なかった。

 そろそろ通過時刻となったころ、遠くから構えているという人から「そこは入るからどけ!」と追い払われてしまった。背後の土手に回るしかないが、そこは既に満員の状態で割り込むことも出来ず、線路から離れた端っこに立たざるを得なかった。横浜の自宅から初電に乗って遥々来たのに悔しかった。

(佐倉-南酒々井) ピカピカのC571が颯爽と通過する。

 午後の撮影は成田線内に足を伸ばす余裕も知識もなく、成田駅から北方に歩いたあたりの跨線橋に構えた。成田線に平行して新空港建設工事のために敷設された線路があり複線区間のようにも見えた。

 成田到着を控えたC571がスルスルッとやって来た。眼下を通過すると「おやっ」という光景が目に入った。なんとテンダに人影が!しかも目立たぬようにと背を屈めているではないか!

 腕章をしているところから見ると乗務員氏だろうか。往路の乗務員が復路は便乗兼石炭整理要員だった?など勝手な推測をしてしまう。

 

【1972/10/8】

 この日は八高線の運転日。高崎発と八王子発の2本が運転され、途中の高麗川で2本の蒸気機関車牽引列車が対面するという。心憎い演出が控えていた。

 横浜線の73形で八王子へ、キハ20の八高線に乗り換えて毛呂に着いた。高崎発の列車が毛呂の田園地帯をスルスルッと通過する様子を見届けてから高麗川に戻った。

 八王子発の列車も高麗川に着くとホームだけでなく、構内もギャラリーで一杯になった。高崎発はD51498でテンダに大きな重油タンクを載せていた。八王子発は初めて目にする1000番台の1002号機で角型ドームだった。

高麗川)八王子行き(奥)と高崎行き(手前)との交換。

 線路に降りるのはどうかと逡巡していたけれど、整然とした区画が出来ていたので行ってみた。お蔭でスッキリとした写真が撮れた。(完全逆光だけど)

高麗川東飯能ランボードの白線も凛々しいD51498の姿。

 高崎発の列車の発車を捉えようと、高麗川駅東飯能方に移動した。そこは2年前の中学の春休みにも訪れた場所であり、豪快な登坂シーンが見られるかと期待していたが、ギャラリーがどんどん増え始め、しかも築堤上に登る輩が多数出て来る始末。列車も安全を考慮してかソロリソロリと弱々しい煙で通過して行った。

 

【1972/10/14】

 第三弾目は横浜を蒸気機関車が駆け抜ける日だった。機関車はC57の7号機で紀伊田辺からやって来たという。折角なので地元鶴見で、なるべく人が少ないであろう場所で撮りたいと考えた。

 高島貨物線が鶴見線をくぐるあたりの花月園前の踏切から入った場所に来た。D51が元気だった頃に何度かスナップした場所だったが、2年ぶりに来てみて様子が変わっていた。なんと線路際に雑草が生い茂っていた。今更場所を変える時間的余裕はなく、国鉄旗をはためかす機関車と、赤帯を巻いた客車の足回りが見えないままのスナップとなってしまったが、そんな場所なので勿論ギャラリーは少なかった。

 紀伊田辺区では集煙装置装備だったため短い煙突が残念な姿となったC577。

 

 列車折り返しの際、横浜機関区でC57が休むということで、横浜機関区に急いだ。ここに来るのも2年ぶりだった。転車台に乗るC577を一目見ようと周囲は多くのギャラリーで賑わっていた。

(横浜機関区)

 転車台の周囲は、さながらモデル撮影会の様相だった。

 D51が健在だったころ、何度か訪れたここ横浜機関区であるが、扇形庫をスナップすることはなかった。庫内にD51の姿を見ることが無かったためと思うが、この日のカットが貴重なものとなった。

 

 復路の撮影も馴染みの場所でと考えて、鶴見~川崎間の古市場踏切とした。すっきりとした写真が撮れる好きな場所で自宅から自転車でよく通ったものだったし、これまでここで御同業の姿を見ることは無かった。

 少し早めに現地に着いた。やはり御同業の姿は無かった。半逆光を浴びて東海道本線を上ってくるC57の姿を期待した。

 ところが通過時刻が迫るにつれて様相が一変する。なんと近所の子どもやおじちゃんおばちゃんが柵を乗り越え、京浜東北線の線路内に乱入して来たではないか!

(鶴見-川崎)

 線路脇でカメラを構える自分にとって、それはとても悔しくそして嫌な情景だった。自分は心中穏やかで無くなってしまい、考えていたポイントの遥か前でシャッターボタンを押してしまったのだった。幸いにも東海道線京浜東北線の緊急停止はなかったと記憶している。

 

 八高線や横浜の運転は数日間行われたはずだが、なぜかこれらの日だけの撮影で終わっている。

 親の目を気にして連日出かける意思や気力が乏しかったのか、鬱々とした50年前、高校2年生の10月の思い出だった。

 時刻表72年10月号を開くと、全国での記念きっぷ発売が予告されている。まさに日本全国がお祭り騒ぎだったようだ。(ああ、あれから50年)