線路端のブログⅡ

高架化されても、高いフェンスに遮られても、やっぱり線路端が好き・・・。

北陸6つの列車旅 ー1ー

 先月は北陸の6つの列車に乗るというツアー旅に参加して来ました。閑散路線のために乗り鉄し難い所や、指定席が取り難いレストラン列車などを乗りつくそうというもの。

 さぞや参加者は鉄分の濃い目の方々と思いきや、自分と僅かの方を除いてはそのような所作は見受けられませんでしたが(笑)、結構人気が高いようで各催行日は直ぐに満席になるほどでした。

【1本目 越美北線

 東京から「かがやき505号」で金沢へ行き、「サンダーバード20号」に乗り継いで福井に着きました。目的の越美北線には10分ほどで接続しますが、ツアーバスに乗り換えて越前大野に向かいます。

 自分としては全線乗車したい所ですが、各列車をバスで繋ぐというのも非常に効率的なスケジュールが組めるというものです。

 線路に沿って美濃街道(158号線)を進みます。いかにも一乗谷の風景だなと思わせる車窓を楽しみながら城下町の越前大野に着きました。

 最近の改築でしょうが素敵な木造駅舎です。

 ホームの端には釣鐘があり、琺瑯看板も添えられていてテンションが上がります。

 越前大野13:47発の725Dに乗車です。発車時にこのスタフを駅員が運転士に渡す様子がありました。運転士からは何も無かったので、大野から先がスタフ閉塞方式のようです。無造作に置かれた様子に自分はちょっとほっこり。

 以前からずっと気になっていた駅が近づいて来ました。ここを通るということも参加を決めた理由のひとつです。

九頭竜湖駅はログハウス風でした。岐阜への全通を期した越美南線は3セク化され、白鳥までを結んでいた国鉄バス路線も廃止。もはや行き場を失った感の終端駅です。

委託駅だったので記念に購入した乗車券には、あの駅名が印刷されていました。

こんなものもありました。

(2022/10/13)1本目を終わり、このあと2本目へと続きます。

 

スペーシア@中央線(日野)

前日に八王子を発ったスペーシアが中央線に戻って来ました。

いささかアリバイ写真のようになりますが、それと判るカットを1枚。

八王子に着いたスペーシアは5~6分後には東武線内に帰巣するべく折り返します。

そうは言っても回送列車ですから、日野の中線で20数分間の本線退避となりました。

退避中にE353が通過。普段は新宿で顔を合わせている両者ですが、これほどの接近はありませんよね。

さあ、これから国立から地下に入って武蔵野線へ、大宮から栗橋へ向かってお家に帰ります。以上日野での3部作でした。(笑)

(2022/10/2)

 

中央線(八王子)発のスペーシア

 行楽シーズンになると時折運転される中央線(八王子)発の東武線日光方面行きの特急が、10月初旬に運転されました。

 普段からJR~東武線として新宿には顔を出していますが、武蔵野線~中央線の経路を取るこの列車は中々楽しそうです。

回8270M

東武線から八王子への送り込み回送が日野の中線で本線を退避しています。

回8270M

豊田に先回りしていつもの場所で待ち受けました。スペーシアには色々なカラーバリエーションがありますが、やはりオリジナルのこれが落ち着きますね。

8271M 特急「スペーシア八王子きぬ」号。

そのまんまの名前に少々笑ってしまいますが、昨今の単調な鉄道シーンには貴重な変わり種。この日は鬼怒川温泉までの往路のみの運転で、復路は翌日となります。

(2022/10/1)

’76年 四国・岡山の私鉄巡り旅 ー5-

【1976/9/20】

 これまでずっと晴天が続いてきたが、朝目覚めると雨だった。宿の最寄りのバス停から下電バスに乗り児島へと向かう。

 児島は広いバスセンターになっていた。下津井電鉄はその一角に乗場があり、簡素なプレハブ造りの駅舎だった。おそらく茶屋町-児島間の廃止の際に場所を移して設置されたのかと思う。

 近鉄内部線に続いてのナローゲージの電車に乗り込む。児島から阿津までの間は家々の軒先をかすめ、琴海は山の中腹に駅があった。眼下には玉野ボートレース場が見える。鷲羽山駅は観光地の玄関口とは思えないほどに寂れていた。東下津井から下津井にかけての有名な大カーブは壮観で、いつか再訪してみたいと思った。

 下津井駅構内には検査上がりと思われる美しい車体のナローが見えた。留置されている貨車は螺旋連結器だった。検修庫の奥に元井笠鉄道気動車が見えたが撮影は出来なかった。

 後年の廃止が近づいた頃は、落書き電車などという飛んでもない姿を晒していたが、当時はこのようなきれいな姿を記録出来た。

 歴史ある下津井の港も街もそしてその玄関口の駅も、瀬戸大橋の開通で忘れ去られてしまったかのように今思う。

 

 駅の直ぐ目の前は下津井港となっており、しばらくすると丸亀航路のフェリーが入港した。下船した客が続々と電車乗り場に向かって行く、下津井電鉄の役割はこんなところにもあるのだなと実感した。自分もそれらの乗客と一緒に乗り込み児島へと戻る。途中、琴海で新聞片手のオジサンたちが降りて行った。あのレース場に向かうのだろう、先ほどフェリーから降りて来た人たちだ。

 

 児島から下電バスで倉敷に戻った。倉敷駅前から徒歩数分の路地を入った所に水島臨海鉄道倉敷市駅があった。大きな木造倉庫という佇まいだった。

 構内には国鉄払下げのクハ16が2両とキハ311が留置されている。ホームにはキハ07タイプのキハ312が居た。

 早速乗り込み水島まで往復してみる。こちらの沿線も岡山臨港鉄道と同様に臨海線という名から連想する工業地帯のイメージには程遠い風景が広がっていた。終点は三菱自工前だが、日中時間帯は水島止まりのダイヤとなっていた。

 次に倉敷から和気に向かい、和気で接続している片上鉄道に乗ってみようと思う。臨海部の片上から山間の柵原までを結んでいるが、足跡を残すだけの駆け足旅なので片上まで往復することにした。

 田園風景を走りトンネルを抜け、山陽新幹線を交差して片上に着いた。片上は大きな町だった。商店街が駅のすぐ目の前にあり、駅の隣には備前郵便局もあった。構内にはヤードが広がり奥の港へと繋がっている様子だった。

 貨車の入換え作業がひと段落すると青い客車3両を含む混合列車が入線してきた。客車にはクリーム色の帯が入っており、さながら片上鉄道のブルートレインである。客車はオープンデッキ付きで車内を見ると、ボックスシートが並びデッキ側はロングシートだった。

 雨模様の夕暮れ時近く、白熱灯の明かりが嬉しかった。

 和気まで戻ることにする。丁度会社の退勤時間だったのか、仕事終わりのオジサンが大勢乗り込んでいる。列車はゴットン、ゴットンとゆっくり走り、気動車よりも所要時間が5分ほど余計にかかって和気に着いた。

 

  和気から姫路で乗り継いで大阪へ向かう。姫路では駅弁を夕食にしたが、少し物足りなく思い駅ソバを食べたら一風変わっていた。それは中華麺の蕎麦だったがうまかった。

 大阪から急行「銀河51号」に乗り込んだ。当初の計画では翌朝「銀河51号」を浜松で下車して遠州鉄道に行ってみようと考えていたのだが、疲れのためか、前日までの満足感からか浜松で降りる気がせずそのまま横浜着。こうして今回の「四国・岡山の私鉄駆け足旅」を終えたのだった。

 

後日談:この旅で伊予鉄道線の「古町」駅を「こまち」と覚えた。後年、新潟市内の「古町」に行こうと、駅前からタクシーに乗り「こまち」と告げると、運転手氏が「えっ???」と訝る。「あのぉ古い町と書く・・・」と告げると「ああ、『ふるまち』ね」と納得してくれた。勉強になった。

 

’76年 四国・岡山の私鉄巡り旅 ー4-

 

【1976/9/19】

 四国とはお別れの日。岡本から乗って来た琴電に別れを告げ、向かいに位置する高松駅を見上げる。四国入りした日は未明の時間だったので、その姿を初めて見るのが分かれの日とは皮肉だった。

魅惑の車両いっぱいの琴電に再訪を期して、一先ず別れる。

 連絡船で着き、ここから四国内各方面に向かう旅客の流れも、瀬戸大橋開通で大きく変わったし、それに合わせて駅自体も移ってしまった。

 

 高松から宇高連絡船に乗り込むと、先日と同じ阿波丸だった。天気も良かったので1時間の船旅をデッキで過ごした。瀬戸内海の美しい島影を眺めていると、連絡船の進路を右から左からと貨物船などが頻繁に横切る。よくもまあ衝突しないものだと思う。宇野からの接続は快速列車だった。編成に組み込まれたグリーン車を見ると、最近横須賀線から転出したばかりのサロ113だった。新製車両だったにも係わらず定員減となったために、横須賀線での使用不向きと判断されて関西に転出したと聞いていた・・・。

 茶屋町普通列車に乗り継ぐ。下津井電鉄の旧駅舎が見えホームが残っていた。線路は無くそこにバスが乗り入れていたのが見えた。

 大元に着くと岡山臨港鉄道の気動車が待っていた。丸みを帯びた車体がかわいい。元江若鉄道のように見受けた。自動車と同じようなクラッチを入れて加速するスタイルだった。「臨港」と社名が謳っているものの、沿線風景は田んぼと住宅、小学校も見え運動会をやっていた。

 宇野線とホームを供用し、のりばの案内が小さくある。こんな車両がいきなり目に飛び込んで来るのが、ローカル私鉄訪問の醍醐味。

低い背ずり板が並ぶ車内。座席というより腰掛。

小児用乗車券を記念に購入。あまりに素っ気ない券面。

 岡南元町まで往復したのち、岡山電気軌道線のスナップに移る。前もって地図を調べると、大元から1.5kmほど歩けば軌道線に出会えそうなのが分かったので、勘を頼りに歩くことにした。なんとか清輝橋線大雲寺前に出ることが出来、ここから中鉄バス前、東山本線西大寺町と進み、京橋の袂まで来てスナップした。

大雲寺前

センターポールの京橋を行く。

 

 表町入口まで戻り岡山駅前まで乗ってみることにした。料金は60円、ワンマンバスで見るような機械式の料金箱は無く、100円硬貨での釣銭客には運転士が小袋に入った両替金を渡し、客がその中から60円分を払うという方式だった。その小袋が薬袋みたいに綺麗に織り込まれていたのが印象的だった。

 岡山から倉敷へ向かい宿に入る。途中倉敷駅前から美観地区を通り抜けたが、美観を作り上げているような感じがして映画のセットのような雰囲気だった。

 

’76年 四国・岡山の私鉄巡り旅 ー3-

【1976/9/18】

 朝、高知駅に向かい列車の運行状況を確認、幸いにも上り方面の運休は無く一先ず安心し土佐電鉄の撮影を開始。高知駅前からはりまや橋、そして県庁前まで歩いてスナップした。

 「ごめん」「いの」の大きな方向板を掲げた電車が面白かったし、土佐電鉄を「とでん」と呼ぶことを知った。そう思って見ると、電車そのものも「都電」に似ているように思えた。

高知駅前)南国ムードが漂っていた。

はりまや橋)「土佐の高知の・・・」のこの橋が道路上のモニュメント然としているとは知らなかった。

(県庁前)山の上には高知城を望む。

 

 10:03発の急行「土佐3号」に乗車すべく駅に戻ると既に改札待ちの列が出来ていた。列車は車両のやり繰りが付かないのか、所定のグリーン車なし、「よしの川号」の併結も無しという自由席のみ4両の急ごしらえの編成だった。

 高知を発車し土佐山田を過ぎるといよいよ山登りが始まる。グイグイと登りに登る。車窓に一瞬、高知平野と太平洋の海原が見えた。さらにエンジンを響かせこれでもかと登ったところが繁藤だった。前年の台風で大きな被害を受けた地域だった。大歩危小歩危の渓谷を過ぎると阿波池田。黄色く濁った吉野川が見えてきた。県境越えとなる山登りを終えると琴平に着いた。多度津から予讃本線に入って、定時に高松到着。

 

 早速高松琴平電鉄、通称琴電のスナップに入る。起点の高松築港駅はすぐ目の前だった。有名な玉藻城脇から線路沿いに歩きながら行き交う電車をスナップする。片原町そして瓦町へと歩いていると、どれもこれも曰くありげな古典的車両がやって来る。また線路脇には柵も無く路面電車の専用軌道の趣だった。

玉藻城の脇を行くコトデン。今もこの風景は変わらない。

怪しげな車両がひっきりなしにやって来るのが、当時の琴電の魅力。

 

 瓦町から長尾線に乗る、琴電での目的のひとつである元阪神の金魚鉢に乗ることが出来た。一先ずは足跡を残すことが出来たので木太東口で下車して瓦町に戻る。瓦町駅には各方面の電車が発着し乗降客も多く賑わっている。

「金魚鉢」の特徴のひとつ、ひざの高さまである貫通扉の窓は眺望抜群。

 

 隣の栗林公園を観光しようかと一瞬思ったが入園料が掛かるのでやめて、再度、築港駅から瓦町間をブラブラした後、宿のある岡本へと琴平線で向かった。

 

’76年 四国・岡山の私鉄巡り旅 ー2-

【1976/9/17】

 急行「鷲羽」は定時に宇野に着き、宇高連絡船に接続した。乗船したのは阿波丸だった。深夜便だからなのか判らぬが、出港時の蛍の光は無かった。

 高松からは5時発の急行「うわじま2号」に時刻表通りに接続し、予讃本線を快調に飛ばして定時に松山に着いた。途中、瀬戸内海の景色を車窓に期待したのだったが、菊間~浅海と伊予北条のあたりでだけ見えた。それでも台風被害のために不通となっていた区間が深夜0時に開通したばかりにも係わらず見事な定時運転だった。

 松山駅前には伊予鉄の市内線が来ているが、ターミナルとも言うべき松山市駅まで歩いてみた。市駅からは伊予鉄の郊外線が発着しており、そのひとつの高浜線に乗って梅津寺に行ってみた。駅の目の前には海が広がっていた。

梅津寺

 20分ほど滞在して車庫のある古町に戻る。この車庫は市内線と郊外線の車両が共存している。駅のホームで撮影していると、駅員氏が「車庫の事務室で許可を貰って車庫構内で撮ったほうがいいよ」とアドバイスしてくれた。

114号は元西武で川崎造船製。屋根が深いのも特徴。

 郊外線の電車の脇に市内線のマスコットが居るという楽しさ満点の車庫だった。その車庫内には楽しみにしていた元京急の電車も居て対面出来たのが嬉しかった。

 

 車庫内での撮影を終え国鉄駅まで歩いて向かい、次に市内線に乗って道後温泉駅まで往復してみた。特段の温泉街という雰囲気は無かった。

71号は自社発注の車両で帝国車両製。

 道後温泉駅からの帰り道で子規堂に保存されている、ぼっちゃん列車の客車を見た。機関車は梅津寺パークに保存されているとのことだったが後の祭り。予め知っていればと思う。

人車鉄道の客車にデッキをつけたような形態だった。まさにマッチ箱。

 午前の松山でのスケジュールを終え、松山駅前から高知への国鉄バスに乗り込むこととした。高知行急行便「なんごく8号」は快適な冷房車であり、ふかふかシートは鉄道車両には無い乗り心地だった。

 松山市内と高知市内のほかは信号待ちの無い国道33号線を、途中トイレ休憩を挟みながら快調に飛ばした。山越えする時には眼下に松山市街と瀬戸内海の景色が見え、山中を走る際は渓流に沿って走るなど大いに車窓を堪能した。列車の旅とは一味違う快適な旅だった。

 バスが高知市内に入ってからは市街至る所が土埃にまみれており、台風での浸水被害の模様を窺うことが出来た。高知駅前には定時に到着。

 宿は筆山にあるYHを予約していたので向かって歩いて行くと、筆山への登山道入口のところで、この先が崩れる危険があるとのことで通行止めと、警官に呼び止められ進めなかった。傍らに高知駅前YHの案内が出ていたので電話してみると、こちらは浸水被害がありガス水道も止まっていて営業していないとのこと。高知城にある県の教育会館を案内してくれた。幸いそこは宿泊OKだったので辛うじて宿を確保出来て助かった。