線路端のブログⅡ

高架化されても、高いフェンスに遮られても、やっぱり線路端が好き・・・。

’76年 四国・岡山の私鉄巡り旅 ー5-

【1976/9/20】

 これまでずっと晴天が続いてきたが、朝目覚めると雨だった。宿の最寄りのバス停から下電バスに乗り児島へと向かう。

 児島は広いバスセンターになっていた。下津井電鉄はその一角に乗場があり、簡素なプレハブ造りの駅舎だった。おそらく茶屋町-児島間の廃止の際に場所を移して設置されたのかと思う。

 近鉄内部線に続いてのナローゲージの電車に乗り込む。児島から阿津までの間は家々の軒先をかすめ、琴海は山の中腹に駅があった。眼下には玉野ボートレース場が見える。鷲羽山駅は観光地の玄関口とは思えないほどに寂れていた。東下津井から下津井にかけての有名な大カーブは壮観で、いつか再訪してみたいと思った。

 下津井駅構内には検査上がりと思われる美しい車体のナローが見えた。留置されている貨車は螺旋連結器だった。検修庫の奥に元井笠鉄道気動車が見えたが撮影は出来なかった。

 後年の廃止が近づいた頃は、落書き電車などという飛んでもない姿を晒していたが、当時はこのようなきれいな姿を記録出来た。

 歴史ある下津井の港も街もそしてその玄関口の駅も、瀬戸大橋の開通で忘れ去られてしまったかのように今思う。

 

 駅の直ぐ目の前は下津井港となっており、しばらくすると丸亀航路のフェリーが入港した。下船した客が続々と電車乗り場に向かって行く、下津井電鉄の役割はこんなところにもあるのだなと実感した。自分もそれらの乗客と一緒に乗り込み児島へと戻る。途中、琴海で新聞片手のオジサンたちが降りて行った。あのレース場に向かうのだろう、先ほどフェリーから降りて来た人たちだ。

 

 児島から下電バスで倉敷に戻った。倉敷駅前から徒歩数分の路地を入った所に水島臨海鉄道倉敷市駅があった。大きな木造倉庫という佇まいだった。

 構内には国鉄払下げのクハ16が2両とキハ311が留置されている。ホームにはキハ07タイプのキハ312が居た。

 早速乗り込み水島まで往復してみる。こちらの沿線も岡山臨港鉄道と同様に臨海線という名から連想する工業地帯のイメージには程遠い風景が広がっていた。終点は三菱自工前だが、日中時間帯は水島止まりのダイヤとなっていた。

 次に倉敷から和気に向かい、和気で接続している片上鉄道に乗ってみようと思う。臨海部の片上から山間の柵原までを結んでいるが、足跡を残すだけの駆け足旅なので片上まで往復することにした。

 田園風景を走りトンネルを抜け、山陽新幹線を交差して片上に着いた。片上は大きな町だった。商店街が駅のすぐ目の前にあり、駅の隣には備前郵便局もあった。構内にはヤードが広がり奥の港へと繋がっている様子だった。

 貨車の入換え作業がひと段落すると青い客車3両を含む混合列車が入線してきた。客車にはクリーム色の帯が入っており、さながら片上鉄道のブルートレインである。客車はオープンデッキ付きで車内を見ると、ボックスシートが並びデッキ側はロングシートだった。

 雨模様の夕暮れ時近く、白熱灯の明かりが嬉しかった。

 和気まで戻ることにする。丁度会社の退勤時間だったのか、仕事終わりのオジサンが大勢乗り込んでいる。列車はゴットン、ゴットンとゆっくり走り、気動車よりも所要時間が5分ほど余計にかかって和気に着いた。

 

  和気から姫路で乗り継いで大阪へ向かう。姫路では駅弁を夕食にしたが、少し物足りなく思い駅ソバを食べたら一風変わっていた。それは中華麺の蕎麦だったがうまかった。

 大阪から急行「銀河51号」に乗り込んだ。当初の計画では翌朝「銀河51号」を浜松で下車して遠州鉄道に行ってみようと考えていたのだが、疲れのためか、前日までの満足感からか浜松で降りる気がせずそのまま横浜着。こうして今回の「四国・岡山の私鉄駆け足旅」を終えたのだった。

 

後日談:この旅で伊予鉄道線の「古町」駅を「こまち」と覚えた。後年、新潟市内の「古町」に行こうと、駅前からタクシーに乗り「こまち」と告げると、運転手氏が「えっ???」と訝る。「あのぉ古い町と書く・・・」と告げると「ああ、『ふるまち』ね」と納得してくれた。勉強になった。