線路端のブログⅡ

高架化されても、高いフェンスに遮られても、やっぱり線路端が好き・・・。

’76年 四国・岡山の私鉄巡り旅 ー2-

【1976/9/17】

 急行「鷲羽」は定時に宇野に着き、宇高連絡船に接続した。乗船したのは阿波丸だった。深夜便だからなのか判らぬが、出港時の蛍の光は無かった。

 高松からは5時発の急行「うわじま2号」に時刻表通りに接続し、予讃本線を快調に飛ばして定時に松山に着いた。途中、瀬戸内海の景色を車窓に期待したのだったが、菊間~浅海と伊予北条のあたりでだけ見えた。それでも台風被害のために不通となっていた区間が深夜0時に開通したばかりにも係わらず見事な定時運転だった。

 松山駅前には伊予鉄の市内線が来ているが、ターミナルとも言うべき松山市駅まで歩いてみた。市駅からは伊予鉄の郊外線が発着しており、そのひとつの高浜線に乗って梅津寺に行ってみた。駅の目の前には海が広がっていた。

梅津寺

 20分ほど滞在して車庫のある古町に戻る。この車庫は市内線と郊外線の車両が共存している。駅のホームで撮影していると、駅員氏が「車庫の事務室で許可を貰って車庫構内で撮ったほうがいいよ」とアドバイスしてくれた。

114号は元西武で川崎造船製。屋根が深いのも特徴。

 郊外線の電車の脇に市内線のマスコットが居るという楽しさ満点の車庫だった。その車庫内には楽しみにしていた元京急の電車も居て対面出来たのが嬉しかった。

 

 車庫内での撮影を終え国鉄駅まで歩いて向かい、次に市内線に乗って道後温泉駅まで往復してみた。特段の温泉街という雰囲気は無かった。

71号は自社発注の車両で帝国車両製。

 道後温泉駅からの帰り道で子規堂に保存されている、ぼっちゃん列車の客車を見た。機関車は梅津寺パークに保存されているとのことだったが後の祭り。予め知っていればと思う。

人車鉄道の客車にデッキをつけたような形態だった。まさにマッチ箱。

 午前の松山でのスケジュールを終え、松山駅前から高知への国鉄バスに乗り込むこととした。高知行急行便「なんごく8号」は快適な冷房車であり、ふかふかシートは鉄道車両には無い乗り心地だった。

 松山市内と高知市内のほかは信号待ちの無い国道33号線を、途中トイレ休憩を挟みながら快調に飛ばした。山越えする時には眼下に松山市街と瀬戸内海の景色が見え、山中を走る際は渓流に沿って走るなど大いに車窓を堪能した。列車の旅とは一味違う快適な旅だった。

 バスが高知市内に入ってからは市街至る所が土埃にまみれており、台風での浸水被害の模様を窺うことが出来た。高知駅前には定時に到着。

 宿は筆山にあるYHを予約していたので向かって歩いて行くと、筆山への登山道入口のところで、この先が崩れる危険があるとのことで通行止めと、警官に呼び止められ進めなかった。傍らに高知駅前YHの案内が出ていたので電話してみると、こちらは浸水被害がありガス水道も止まっていて営業していないとのこと。高知城にある県の教育会館を案内してくれた。幸いそこは宿泊OKだったので辛うじて宿を確保出来て助かった。