線路端のブログⅡ

高架化されても、高いフェンスに遮られても、やっぱり線路端が好き・・・。

’74年北海道の旅 ー5-

【1974/9/10】

 午前中は白老駅でC57やD51をスナップという超お手頃テツだった。もう少し工夫はなかったのか、いくら何でも北海道まで来てフツーの駅撮りは無いだろうと今、後悔している。

225レ  日中時間帯のD51牽引列車といえばこの225レだったことを思い出す。

224レ  小荷物の扱いをするのであろうか、前掛けをしたオジサン達の姿が見える。

227レ  224レを見送ったあと程なくして227レが到着し発車する。駅本屋への跨線橋は、下り列車発車時の煙に見舞われる位置にあり、改札へと向かう乗客もさぞや煙たいことだろう。

 225レのスナップのあとに観光をと白老ポロトコタン(当時)の見学で過ごし、再び駅に戻って224レと227レをスナップしてから登別に向かった。その間にも数本の貨物があったはずだが無視している。こんな形で白老で過ごしていたのも、このあとの登別での集合時刻に遅れてはならぬという思いだったのかも知れない。

 今回の旅は所属サークルの夏合宿※を銘打っていたが、登別と札幌・中山峠の国民宿舎に9月10日と9月16日にそれぞれ集合とだけ指定されており、それ以外はまったくの自由行動だった。

 集合の宿は登別温泉の先、カルルス温泉にあったようでバスを乗り継いだメモがある。途中、クッタラ湖にも寄りボートに乗った記述がある。バスの中かどこかで先輩女子グループに声を掛けられ、結果、乗せられて漕がされたとメモにある。それでも湖そのものは、神秘的で静かな雰囲気が漂う場所であったと記している。

※ 合宿と言っても宿に集合するだけ、「それが合宿なのか?」と当時思ったし、後年ずっと「あのサークルは緩かった」と思って来た。

 ところが卒業から四十数年経った先日、某大学の鉄研活動の振り返りが記された本を目にした。執筆者は自分とほぼ同年代の方であり、当時の「鉄研模様・合宿模様」として述べられていた。そこに描かれていたのは、鉄研と言えども旅行目的のメンバーも多いこと、合宿と言っても現地集合現地解散合宿であったことなど。加えて「当時の鉄研はいずこも同じ」と評されていた。

 自分が通う大学鉄研だけが軟弱で特異なものと当時からずっと思って来たのだが、それがむしろ一般的なものであったことを知り、還暦を過ぎた今になって妙な安心感を得たのだった。

【追記】

先日、この一文を目にした当時の同期からこんな連絡があった。

『お前はその後のことを知らないと思うが(この合宿の数か月後に退部しています)、翌年から年を追って活動内容が変わって行ったんだぞ。部内機関誌の発行にも益々力を入れて行った。』と。

一時期の活動状況だけを見て、その印象に囚われて今日まで来てしまったことを反省。

 

’74年北海道の旅 ー4-

【1974/9/9】

 いよいよ蒸機撮影となる日。植苗のお立ち台を目指す。

 YHからお立ち台へは25000分の1の地図を頼りに歩いた。5~6kmあったろうか、或いはそれ以上か。原野の中の国道をとぼとぼ歩く、途中から植苗方向へ目星をつけた脇道を探して入る。詳細な撮影地ガイドなど無い時代、不安に思いながらも「見込み」で進んで行きなんとかゴール出来てほっとした。

 遠くに苫小牧のコンビナートを望む雄大な風景と、千歳線を行く特急群や室蘭本線のD51貨物、C57客レをお立ち台の上から下から堪能した。

専貨5793レ  空のセキを連ねて夕張のヤマへと石炭の積出しに向かうのであろうか。

224レ  8両と見事な編成であるが、よく見れば半数は郵便荷物車と思われる。貨物同様に鉄道が地域の物流を担っていた証し。画面左に連なる通称「ハエタタキ」が懐かしい。

 生きた蒸機に対面するのは2年ぶり、そう鉄道100年記念の特別運行以来のことだった。普段着姿の蒸機となれば4~5年ぶりとなる。

 だが、少し残念に思ったのは、あの北海道スタイルだ。切り詰めたデフの姿や密閉キャブ、それに伴う異様に短いキャブ屋根を見ると別形式ではないかとさえ思った。

函館行き「おおぞら1号」

 お立ち台での撮影を楽しんだ後は植苗駅から苫小牧に移動し、苫小牧駅構内はずれの跨線橋に寄ってスナップしてみた。架線の無い跨線橋は初めてであり、架線柱やビームを気にせずにアングルが自由に取れて嬉しかった。

 奥に見えるのが苫小牧駅。その奥の高い煙突は植苗のお立ち台からも見通せたコンビナートの煙突群のひとつ。

 手前は本線上に設置されたピット。給水や火床整理を行う様子をこの跨線橋から間近に観察することが出来た。

 ギースルエジェクタもしっかり観察。線路端で待機中の乗務員氏、しゃがんで煙草を一服の光景も懐かしい。

助士席の前面窓はHゴムはめ殺しだった。機関士側は通常の旋回窓装備。(D51328)

 

楽しい観察が続いたが、雨が降り出して来たので撤収。

この日の宿の白老YHへと向かった。

 

 

 

’74年北海道の旅 -3-

【1974/9/8】

 旅の3日目、午前中は大沼駅やその先の仁山のほうに向かって歩いてみた。背後に駒ケ岳を望み、ただただ広い原野に北海道に居ることを実感した。

 延々と連なるワムの編成。お尻はまだ大沼駅構内を抜けていないようだ。このように遮るものなく全編成を見通せるのも北海道の原野を実感する。

 

 その先の大きなカーブにも行ってみた。かつて「大沼湖畔を行くD52」というような写真を見た覚えのある場所だった。僅か2年前まであの巨体がこの線路を走っていたかと思うと感慨深い。

 鉄道趣味誌で何度か目にした場所。北海道に来たら是非ここで撮ってみたいと考え、今回のスケジュールに組み込んだ。

 

 キハ82の特急群が頻繁にやって来る。さすが幹線、北海道の大動脈である。しかも架線が張られていないことにまた本州との違いを感じた。D52を追いやった北国仕様のDD51を初めて目にする。

 不意に三ツ目ライトのDD51745(※)が迫って来た。北海道には三つ目のDD51が居る!と強く印象づけられた時だった。

123レを牽くDD51745(五)

 この写真、一見すると右側通行のように見えるが、奥側は函館発の下り優等列車と貨物列車専用の藤城支線で仁山を経由しないもの、手前側が函館本線仁山停車の下り普通列車と上りは全ての列車が使用する。

 

 蒸機目的の旅にもかかわらず、こんな具合に北海道初日2日目ともに未だ煙を嗅がずとも嬉々としているという、我テツ指向の雑食性を笑ってしまう。

 大沼公園駅に戻り昨日乗車した昼の急行「宗谷」で長万部へ、さらに普通列車と急行を乗り継ぎ夕方に苫小牧着。

 観光地としての大沼公園には行かずじまい。そこが駅から至近の場所だと知ったのは30年後でした。

 列車乗り継ぎの間で途中下車して押印。

 

 YH2泊目となるウトナイ湖YHへは駅前からバスの便があると聞いたが、知らない土地での乗るべきバスはどれかと不安になった。

 そんな中、「勇払」行きを「ユース」行きと聞き違えて乗り込んでしまい、発車直前に慌てて降りたことを覚えている。

 

※ DD51745は後年、新潟で再会を果たすことになった。「ばんえつ物語号」運行開始の年のクリスマストレインで、新津駅にて使用客車が上沼垂から回送されて来るのを待っていると、それを牽いて来たのが三つ目のナシゴ(745)だった。調べてみると民営化前の’86年に五稜郭から長岡に転じており、三つ目のまま磐越西線で活躍していたとのこと。しかしそれは丁度自分が休鉄期間中のことでもあり知る由も無かった。

 

 

’74年北海道の旅 ー2ー

【1974/9/7】

 初めての北海道の地は深夜1:35の函館駅連絡船待合室で幕開けとなった。

 夜明けまでには時間があるので硬いベンチに横になるが、変な酔っ払いに絡まれないか、誰かに荷物を取られないかと心細い。眠い目には眩しい蛍光灯、潮の香りが混ざったような澱んだ空気、コンクリートの床に纏わり付く数匹の蠅、そんな待合室の殺風景な情景が強く印象に残っている。

 ようやく朝になり、駅前から函館市電のスナップを開始。メモによると松風町まで歩き、そこから五稜郭公園前までを往復。次にバスで湯の川へ出向いて市電で函館駅前へと戻っている。事前の準備もなく適当に回ったと思われる動きだ。せめて十字街や谷地頭などにも行っていればと今になって悔やむが、当時はレトロな街並みとか急坂の電停とかの撮影地情報は存在しなかったと思う。

五稜郭公園前にて

 

市電スナップの後は昼の急行「宗谷」で大沼公園へ移動した。

「宗谷」は11:50発。

 見れば隣のホームには11:40発「おおぞら3号」と11:45発「おおとり」が待機中。優美なキハ82が2羽も並ぶ姿には惚れ惚れする。

 

 大沼周辺は以前から好撮影地として雑誌記事で認識していたので、撮ってみたいと思ってのこと。夕方まで周辺を歩きながらスナップして過ごす。

ユ、ユ、ハ、ロ・・・。DD51を先頭に函館行き急行「ニセコ1号」が行く。

 大沼公園駅近くに道路が砂原支線をオーバークロスする場所があった。函館を目指す上り特急や急行は皆、森からはこの砂原支線を経由していた。よってこれらは大沼公園駅は通らずにいたのだった。

 

 この日の宿イクサンダー大沼YHは、自分のYH宿泊第1回目となった。

 

’74年北海道の旅 ー1ー

 大学1年の夏休み、北海道へと旅立った。それは何もかもが初めて尽くしの旅だった。北海道はもとより初めての東北以北への旅、しかも13日間という長旅も初めてのことだったし、YHを利用するのも初めてだった。

 その旅で乗車した鉄道車両の記録ノートと、スタンプ帳の簡単なメモを頼りに振り返ってみたい。

【1974/9/6】

 周遊券を手にした貧乏学生の旅の常として、急行列車自由席を乗り継いで北上した。上野発の盛岡行き急行「いわて1号」を仙台で途中下車し、駅前周辺で仙台市電をスナップ。これは長時間乗車の息抜きも兼ねていたと思うが、数年後には廃止となった仙台市電の貴重な記録となった。また、この時の仙台駅は東北新幹線開業に向けての改築工事中だったし、仙石線は地平の行き止まりホームだったことを覚えている。

 当時は東北新幹線開業に向けてと言われてもピンと来なかったが、改築工事期間中のスナップは或る意味貴重か。(笑)

13:07発 快速石巻行き クハ79100(仙リハ)ほか

 仙石線は旧宮城電気鉄道の戦時買収路線。そんなこともあってか、仙台駅ホームも私鉄っぽい雰囲気を醸し出していた。快速電車の案内板を見ると、列車に応じて停車駅が異なるというのも面白い。

 

 仙台から再び北上のため乗り継いだ盛岡行き急行「もりおか1号」は、常磐線経由で上野から来たもの。「いわて」とは違って勝田電車区の車両だった。

 盛岡からは「しもきた」に乗り継いだ。弘前までは急行でその先は普通列車として碇ヶ関まで行くという、いかにも地元密着の列車と思った。そんなローカル急行に揺られて、やっとの思いで青森に着いた。東京から約700km、これからさらに海を越えるのだ。

 青森で少し休み連絡船は深夜の11便に乗るつもりでいたら、11便は後続列車で混雑が予想されるので、臨時の159便に乗るようにアナウンスで促され、慌ただしく乗り込むこととなってしまった。

いよいよ津軽海峡を渡る。

書籍化してみた。

 ブログの書籍化をしてみました。と言っても出版などという大それたものではなく、単なる製本化です。

 きっかけはこの度のブログの引越し。ブログサービスの終了の告知があった際、「新たなサービスへデータのアウトプットをしてください。但し画像やコメントは引継がれません。」と冷たく言い放たれていました。

 こちらのサービスに引っ越しをし、写真の無い形でスタートしましたのはそんな経緯です。下手な写真ばかりですが、消滅するのも寂しいので紙に残そうと書籍化サービスを発注。1冊あたりのページが限られているので、結構な分冊となって完成しました。

 WEBでは上下スクロールでの閲覧ですが、紙での見開きとページをめくる動作は新鮮でした。また自分の書いた記事でありながら、紙を通して目にすることで客観視出来たような気がします。

 さて、このブログの引越しですが、当該サービスから「某社であれば完全移行出来ます」との告知があったのは当方が引越しをした半月ほど後のこと。

 「裏切られた、早まった」の感もありますが、お蔭で過去ページ全てに目を通せたし、紙ベースへのデータ展開という逆デジタル化(笑)も体験出来たので、無駄ではありませんでした。

 

念願のワンショット

 よくある構図であることは承知していますが、この場所でこの絵を撮ることが念願でした。

(2022/4/16 立川-日野)

 この季節の太陽の沈む方角と時刻。その時刻に見合うように通過する列車。しかもそれは稀に走る団体臨時列車を牽引する電機でなければならない。そして場所は雲ひとつ無い西の空を望む中央線多摩川橋梁。

 条件すべてが合致しましたが、コンマ何秒後には落胆が・・・。

 次のカットでは夕日バックの機関車シルエットを目論んでいたのですが、この時既に画面左端には上り普電が迫っていたのです。(嗚呼!)