線路端のブログⅡ

高架化されても、高いフェンスに遮られても、やっぱり線路端が好き・・・。

’77年 北陸駆け足旅 ー6ー

【1977/3/20】

 朝から晴れ。尾小屋鉄道はもう走っていない。折角福井へ来たので東尋坊を観光してみようと思い駅へ向かうと、宿の近くの城の濠には除雪で集めた雪が投げ捨てられていて、泥混じりの雪が小高い丘のようになっていた。こんなことも春近しの情景なのかなと思う。

 金沢行きの普通列車に乗って芦原温泉へ行き、バスで東尋坊へ向かった。京福三国線で福井から三国港まで行き、バスに乗り換えて東尋坊へ行くルートもあるのだが、周遊券を使って芦原温泉まで出たほうが安く済むのだった。芦原温泉からの国鉄バスも周遊券で利用できれば御の字であったがそれは叶わなかった。

 バスを降りてからの断崖までは派手な土産物店が並び所謂観光地然としていた。その一角を抜けた先に写真やTVでよく見る奇岩の風景が広がっていた。風が強くて海も荒れていた。観光船も大きく揺れている。そんな景色を見ていてもあまりに寒いので早々に退散することにした。

 京福電鉄三国港駅まで歩いてみると25分ほどで辿り着いた。三国港からは急行福井行きに乗車して福井に戻る。

 福井では福武線の市役所前でスナップ。

 電車がホームに停車するとステップがせり出し、発車時には折りたたまれる様子を目にした。また本線から福井駅前への乗り入れの様子も面白く見たが、駅前が歩行者天国になる時刻と同時に中止となってしまった。

 

’77年 北陸駆け足旅 ー5ー

【1977/3/19】の続き

 最終日となった尾小屋鉄道では、新小松発17:20から運賃無料となった。また、倉谷口行き定期列車に金平までの臨時が続行するというダイヤとなっていた。

 駅構内には蛍の光のメロディーが流れ、鉄道の廃止と明日からのバス運行開始のアナウンスが繰り返し流れている。

 運賃無料とはなっていたが、記念に最終日のキップも欲しいと思い往復乗車券を購入すると、恐ろしく古い時代の硬券を出してくれた。或る意味「在庫一掃セール」と言った感じに思えた。

 ファン心理としては最終列車を見送りたいところであったが、それでは宿に戻れなくなるので、18:50発の列車を見送って福井のYHへ戻った。これが自分の目にした尾小屋鉄道の最期だった。

 

’77年 北陸駆け足旅 ー4ー

【1977/3/19】の続き

 福井へ戻り、国鉄の急行に乗って武生に向かう。武生新まで歩いて福武線に乗り込んだ。知り合ったばかりのその方は自分よりも年長の方で、このあたりも以前に来たことがあるとのこと、撮影に適した鉄橋があるから行ってみようとのことだった。

 上鯖江で下車し手前の家久方に戻る形で向かって歩く。暫く歩くとお勧めの日野川の鉄橋に着いた。朝ほどではないが未だに靄が立ち込めていてスッキリとした写真が撮れないのが残念。ここでも駅で貨物列車の有無を予め訊いておき、しっかり撮ることが出来た。このような行動スタイルも初めての経験だった。

 ここから川の土手を少し歩くと北陸本線日野川鉄橋に出るとのことで誘われる。

 鉄橋上は撮りにくいが取り付け部に大きなカーブがあり迫力あるカットが期待出来た。

 そこは流石に国鉄の本線である、特急や急行、普通に貨物と、次から次へと轟音を響かせて列車が来る。ついついその勢いに押されてしっかりアングルを整えることなく安易にカメラを振ってしまったために、いい加減なカットを量産してしまったことを帰京後の現像で思い知った。

 国鉄側でのスナップを終えて武生に戻るべく福武線家久駅に向かう。歩いている途中も平行する福武線の電車が行き交った。

 お椀型ベンチレータの古武士が行き交う中、優美な200形はやはりピカイチだと思う。

 排障器が福井市内の軌道線走行を表している。(武生新にて)

 

 武生からひとりで小松へと向かうことにした。やはり尾小屋鉄道の最後を見ておきたかった。相方とは福井で別れた。

 

※上鯖江の街を歩いていると、お爺さんが「どこから来た?」話しかけて来て、「こんな田舎へ横浜からよく来た。電車なんか写真を撮って面白いのか」と言われた。

また、乾物屋さんで昼食用にカップラーメンを買い、お湯を貰えるかと訊いたら、わざわざ沸かしてくれて、ここで食べろと店先に座らせてくれた。お店の方の親切心に触れた。



50年目にしての発見

 弊ブログとリンクしていただいている転轍器さんのところで先日、七尾線の羽咋についてのアップがありました。

 羽咋には高校の修学旅行で訪れたことがあり、大昔の記憶を頼りにページを拝見すると、自分のスナップにも見覚えのある看板のカットを発見。さらには転轍器さんが触れられている文言をきっかけに、自分のスナップに埋もれた情景を見出すことが出来ました。

ということで転轍器さんとコラボしての羽咋のスナップをお送りしたいと思います。(ハーフサイズカメラでの露出もピントも甘いカットですがご容赦ください。)

駅のすぐ脇の踏切にて待っていると、季節臨の6307D「能登路5号」が到着。

 その「能登路5号」が対向列車待ち合わせで停車中。2面3線の羽咋駅の向こうに跨線橋と駅舎そしてホームが見えます。駄目カットとして放置していたこのコマにあったのは北陸鉄道能登線の情景と判りました。能登線はこの年の6月に廃止されていますが、能登線のことを知ったのはずっと後年のこと、当時は勿論知る由もなく今の今までこんな情景が写り込んでいたことさえ気付かずに放置していました。

 6307Dを待たせて308D「能登路5号」の発車です。脇に見える「プロパン」の看板がローカル色溢れていますが、今回、転轍器さんのところで同じこれを目にしたことが驚きでしたし、ちょっとした感激でもありました。

 上下の「能登路5号」の発車を見送った20分後、快速列車337Dが到着しました。前面の丸い看板には快速の表示があったような気がします。

 337Dを待たせて348Dが発車して行きます。当時の非電化ローカル線の風情そのままですね。先頭の郵便荷物車はキユニ17 11(金ナナ)です。転轍器さんのページには兄弟番号の12号が写っています。

(以上 1972/9/12)

 高校の修学旅行はグループ行動でしたが、千里浜を散歩したのち輪島へ向かい能登半島を一周、「ふるさと列車おくのと」にも乗車(勿論自分の扇動?です)した思い出があります。

 

’77年 北陸駆け足旅 ー3ー

【1977/3/19】

 この日で尾小屋鉄道が廃止となる。しかしながら前日のあの喧噪を目の当たりにし、きょう出かけても同じような写真しか撮れないだろうと、少し気が引けたので福井周辺の私鉄を見て回ることにした。というか、その同じ横浜の区内から来た方からの誘いでもあった。

 まずは京福電鉄福井口に向かうと、車庫に居るあの有名な黒い機関車にも会うことが出来た。

 車庫を訪問していきなり会えたのが嬉しかった。

 賑わう構内踏切。風呂敷包みに当時の様子を思う。 

 

 沿線でも撮影してみようと少し先の越前新保で降りてみた。駅で貨物列車の有無と通過時刻を訊いた。少し開けた線路端に立ってみたが一面の靄が立ち込めていて、真っ白。そもそもあたり一面雪が積もっており、そこへの雨の湿気なのか気温のせいなのか、その雪面から靄が立っているのだった。そんな様子を初めて目にした。

写真としてはダメカットだけれども、記憶に残る真っ白の靄の世界。

 やがてやって来た貨物列車は、靄の先から現れて靄の向こうに消えて行った。これはこれで記録だけれども、晴れカットでも残しておきたかった凸型電機だった。

 

 

’77年 北陸駆け足旅 ー2ー

【1977/3/18】の続き

 新小松に戻り駅構内などをスナップする。

 踏切を挟んだ向こう側はバスの車庫だった。うらぶれた瓦屋根の新小松の駅舎や、周囲のビルの囲まれた鉄道線の一角は時代に取り残された情景だった。

 小型蒸機が置いてあった。保存機として静態のようであるが、何かを燃やした煙が煙突からゆらゆらと上っていた。演出の心配りなのだろうと思う。

 背後には国鉄小松駅とそれに直角に交わるように北陸鉄道小松線の駅が写っている。目と鼻の先にありながら小松線を訪ねていない、「また来ればいいや」と思ったものの再訪しないまま1986年に廃止となっている。せめて駅舎だけでも見て置くべきだったと後悔している。

 昼の臨時列車でも見かけたのだが、小学生のお名残乗車があるようで、ちびっ子の団体が乗車を待っていた。さてこの中の何人が大人になってからも記憶に留めるであろうかと思う。

 廃止を告げる立て看板の脇の自転車が侘しい。

 

 構内をひとわたり見回して国鉄小松駅に戻り、きょうの宿のある福井に向かった。福井駅近くのYHに入ると、なんとここで横浜の同じ区内から来たという方と同室になった。

’77年 北陸駆け足旅 ー1-

【1977/3/18】

 前夜、上野発の急行「越前」は網棚に銀箱がずらりと並んでいた。そうかこれらの持ち主は皆揃って自分同様に小松で降りるのだなと判った。

 尾小屋鉄道の3月19日での廃止が決まり、最後の姿を見ておこうと小松行きを決め、自分そして多くの御同輩もまた急行「越前」に乗り込んだのだった。

 朝6時半に小松着。さて尾小屋鉄道の新小松はどこ?と心配することもなく、改札口から銀箱隊が続々と向かっているのが判る。これに続いて行けば良いのである。北陸本線の踏切を渡るとそこが新小松だった。一番列車は6時50分発だが、切符を買おうにも銀箱隊の行列が出来ており中々進まない。漸く手にして一番列車に乗り込んだものの、ただでさえ狭いナローゲージの車内は銀箱隊で埋まってしまった。

 小松の発車時には全く見えなかった地面の雪が、遊園地前という駅のある山の中に入ると所々に見えるようになって来た。杉木立の中にある花坂を過ぎ、大きく開けた大杉谷口に着くと多くの方が降りた。駅の周囲や鉄橋を望む田んぼの中にはカメラマンの姿が見える。

 上下の列車交換が行われる金平で下車した。空はどんよりと曇っており、周囲の田んぼは雪に覆われていた。臨時のダイヤと臨時の編成が組まれているようで2両や3両の列車が頻繁に行き交った。小松から臨時のスジでキハが客車1両を牽いて来て、ここで客車をホームに置いて機回しし、小松へ戻って行く様子なども見ることが出来た。

 しかしながら、ホームも駅の周囲もカメラマンだらけ、どこにカメラを向けても人影が入ってしまうし、自分が構えている前に平気で入って来る輩も多い。廃止の間際に来た自分がいけないのであるが、山間の里を行くナローゲージの長閑なイメージとはかけ離れた光景が広がっていた。

 ホーム上にある信号梃子が印象的だったし、駅名標の歯科医院名に地域の生活感を感じた金平の駅。

 

 なお、この日の終点の尾小屋は雪で閉ざされており、倉谷口~尾小屋間は運休中のためバス代行となっていた。雪で不通のまま廃止というのも寂しい限りの尾小屋駅である。

 金平でのスナップを切り上げて大杉谷口に戻ってみたが、こちらもカメラをどこに向けても人影が入り込む状況は変わらなかった。

 駅はその名のとおり杉木立の傍らにあり周囲に田んぼが広がっていた。金平に向かって少し進むと石積みの橋脚を持つこの鉄橋を渡って行く。

(1977/3/18)