線路端のブログⅡ

高架化されても、高いフェンスに遮られても、やっぱり線路端が好き・・・。

地域間急行列車って

 先日立ち寄った本屋さんで昭和の時代の貨物列車について記述された書籍(※)に目が止まった。

 ページをめくるとそこには操車場、パンプ、解結貨物、専用貨物などの懐かしい語句が並んでいた。元来、貨車や貨物列車にはあまり興味を持ってこなかった自分だが、これらの語句については大昔の趣味誌や蒸気機関車撮影地ガイドの記事などで目にしたものだった。

 早速購入し、あらためてページをめくって行くと、「地域間急行列車」の文字に目が止まった。字面から凡そのイメージは掴めるものの、具体的な仕組みなどは承知していないものだったが、そのタイトルを冠したパンフレットを仕舞ってあったことを思い出し、書棚の奥のファイリングから探し出してみた。

 B5判サイズの大きさで3ツ折りのパンフレットとなっている。発行は東京北・西・南の3局連名で昭和49年(1974年)3月の発行と読み取れた。

 どこぞの駅にあったものを持ってきたのか、鉄道友の会見学会で頂いた資料なのか記憶が定かではないが、なんとなく後者のような気がする。

 見開くと地域間急行の説明と利用方法が記されている。利用受付や貨車の配車指示をコンピュータ処理するとあり、いかにも近代的処理で行っていると謳っているものの運行形態というか全体的なイメージは掴み難い。

 さらに開くと主な地域間の所要時間や全国での受付駅名が記載されていた。当時は貨物取扱駅がこんなにもあったのかと、今更ながら驚かされる。

 主な区間の所要時間を見ると田端操~梅田が33時間、汐留~浜小倉が43時間とある。はたしてこれで速いのかと思うが、当時とすれば速いからこそ提示しているのだろうし、この本※によると貨車の先方への到着日時が明確になること自体が画期的だったようだ。解結貨物を主体とし操車場ごとに列車組成を繰り返す当時の貨物輸送では、「いつ着くか分からない」のが当たり前だったとのこと。

 東京付近の受付駅名が別枠で囲ってあった。新鶴見(操)と田端(操)を中心に東京、神奈川の駅名が並ぶ。例えば横浜付近で言うと鶴見線の各駅。当時既に旅客営業としては無人駅化されていたはずだが、安善や浜川崎、扇町では当時から貨車の姿を見ていたので貨物営業は行われていたのだろが、浅野はピンと来ない。

 その昔、日本鋼管の自社蒸機が貨車の入換えをしていた記憶はあるが、この資料の当時、浅野駅で貨車を見た記憶はない・・・。しかし言われてみると確かに浅野駅には人が詰めていたことを覚えている。ということはあの方たちは何らかの貨物営業の業務を行っていたのかもと合点が行く。

 さらに横浜の港周辺を見てみると、東横浜、東高島、高島に横浜港、山下埠頭とある。所謂桜木町から山下公園とその先の山下埠頭に至る各駅に線路が伸び貨物取扱があった証拠が読み取れるし、実際C581が山下公園を走った時はまだ線路が残っていた。それも今となっては駅はおろか線路さえ無くなり、大さん橋あたりの高架線は散歩道になってしまっている。

 

 地域間急行を利用した場合の貨車の流れなどの全体像については、残念ながらこのパンフレットからは読み取れずこの本※の解説に委ねたいが、偶々出合ったこれのお蔭で長い時間仕舞ったままだった資料に目を通すことが出来た。

 この表紙については、これまでのファイリングで時折目にした記憶があるものの、中を開いたのは恐らく入手以来の約50年ぶりかも知れないと思うと、若い頃の自分に戻ったような感慨に耽ってしまった。

※書籍名:国鉄時代の貨物列車を知ろう 昭和40年代の貨物輸送 実業之日本社刊 著者:栗原 景