線路端のブログⅡ

高架化されても、高いフェンスに遮られても、やっぱり線路端が好き・・・。

’74年北海道の旅 ー12-

【1974/9/17】

 中山峠からバスで札幌駅前に戻る。自分はこの日の夕方に札幌を発ち帰京する予定。

それまでの時間は市内見物でもしようかと考えていた。

 前日までは時刻表を首っ引きの計画を立てて行動して来たが、市内観光となると勝手が違う。あやふやな知識だけで、さ迷い歩いたとメモにある。旧道庁や大通り公園を周り市電に全線乗り、地下鉄に乗って真駒内まで行っており、鉄分摂取はしっかりやっていた。

 しかし市電と地下鉄の車両の乗車記録はあるが時間のメモがない。巡った先々でのスナップもないので巡った確証が持てないでいる。フィルムは鉄道写真のためとでも決めていたのだろうか。

「みそラーメン」を食べ札幌を味わったことはメモにあるが、どこの店だったかは記録なし。どうやら、観光苦手者のぎこちない市内散策だったようだ。

やはりコレを見なきゃ!と寄ってみた。

すすきの

真駒内

 夕方、急行「ニセコ2号」で札幌を発った。メンバー数人に見送られた記憶がある。車内で夕食用に駅弁を求めようとしたら既に売り切れ、乾き物程度しかなくひもじい思いをしながらの函館までの5時間だったことを覚えている。

 この列車では、連結面のため開放されていた運転台の助手席に座って過ごしたのだったが、カーブ通過の際には一般座席とは違う体の持って行かれ方を感ずるなど、乗務員気分を味わって悦に入ったものだった。

夜半前に函館に到着。

さあ海を渡るぞ、北海道の大地との別れだ。

札幌駅のスナップが無いのが残念。

札幌オリンピックはその2年前、高校1年の冬だった。

北海道初日に押印していないことに気付き慌てて押す。

市電と地下鉄の乗り継ぎ券が配られていた。

しっかりコレクションに追加。

なので割引運賃の恩恵は受けなかった。

 

’74年北海道の旅 ー11-

【1974/9/16】

 早朝、岩見沢着。

 前夜「それじゃ、明日朝に岩見沢のホームで」と言って別れた仲間は、待てどもオロハネ10から姿を現さなかった。

 栗丘へ移動のため乗った列車は朝日を受けて進む。車窓からの景色を眺めていると、この列車の機関車と客車のシルエットが田んぼに現れたり消えたりを繰り返した。今の世なら即座にスナップするが、その時カメラはリュックの中、脳裏にだけ刻まれたシーンとなっている。

 栗丘は手頃な撮影地として有名だった。列車が頻繁に行き交い、スナップの数をこなすことが出来たが、機関車はD51とC57のみで面白みに欠けた気がした。

221レ D51重連だった。郵便・荷物車の無い純粋の客車のみ6両編成が美しい。

5770レ 側面をたっぷりと後背位からショットすると半流型の特徴が良く判る。

上下線が大きく別れ国道をオーバークロスする地点は、御同輩の多くの方々が見覚えのあるであろう場所。

5562レ  これほどまでの黒煙が天まで届けと言わんばかりに立ち上る。

223レ  構内踏切の先は未だ嵩上げされていない石積みのホーム。

きりりとした姿で列車を迎える助役と、岩見沢へでも出かけるのであろうか乗客の姿。

あの時代の国鉄、あの時代の日常の風景が偲ばれる。

9491レ  貨物輸送上の重要路線でもあり頻繁に貨物列車が来る。このD51重連は定期なのだろうか。前位機はほとんど煙がなかった。

 

 この日は合宿2回目の集合となるので、現地に向かうべく札幌に移動する。※

 札幌では時間があったので少しは観光でもしようかと色気を出したものの、どこに行って良いかも分からず、地下鉄でも乗ってみようと中島公園へ行ってみたのだが、何かをするでもなく終わった。

 やはり鉄道のことばかり考えていて、観光となると思考が止まってしまうのかと自嘲する。

 集合地の中山峠まで乗ったバス会社名も時刻もメモに無いが、バス代600円を払った記録だけが小遣いメモにある。※※

 

 ところで、合宿の1泊目も2泊目もその内容には全く記憶がないしメモもない。ただ集まってただ過ごして、何の印象もなく2泊とも終わったのだろうか。例の仲間が岩見沢駅ホームに現れなかった事についても、問いただしたのかどうかも記憶がないが、多分「寝過ごしたゴメン!」で終わったのではなかろうか。

 

※ キハ22222というゾロ目番号に乗っている。面白い番号と思い乗り込み記録したと思うが、車両も番号もスナップしていない。フィルムをケチったのかと思うと残念。

 

※※ いま時刻表を見返すと道南バスと定鉄バスの共同運行で1時間半近くの乗車時間となっている。東京の感覚からすると結構な長距離だったのだなと思う。

急行「利尻」を降り、一息ついて室蘭本線へと乗り換えた朝。

さすがの人気撮影地。手作り感溢れるスタンプが用意されていた。

昼食にと珍しく駅弁を購入したようだ。300円は平均的な価格か。

独特の紋様が北海道を感じさせる掛け紙。

 

 

 

’74年北海道の旅 ー10-

【1974/9/15】

 前日乗った321レは機関車とともに南稚内に引き上げて泊となる運用だった。

 翌朝、稚内へ機関車逆向きで回送され324レとなるので、それを眺めようと南稚内へ出向くと、偶然にも仲間の一人と一緒になった。

 稚内への回送はホームに据えられ発車を待っている。かつての流線形時代を偲ばせるキャブ周りが目を惹く。

オロハネ10を組み込んだ急行「利尻」の入換え作業を目にすることも出来た。

 

 スナップのあとは、その一人と共にC5530牽引の324レに乗り込み、前日に続いての蒸機牽引列車の旅を味わいながら音威子府に向かった。途中駅で交換列車待ち合わせのアナウンスを聞くと、急いで客車を降り機関車脇に走って対向列車をスナップするなど楽しい時間を過ごした。

下沼   1391レとの交換

幌延   キャブ下あたりに形式の書かれた停車位置目標があった。今回アップに際しこれまでずっと気に留めていなかったこの位置が、例の本線上のピットではないかと推測出来るようになった。

幌延   塩狩で、そして宗谷本線に入ってからの2日間ともにシゴゴサンマルに会えたことは運に恵まれたと思う。

 

 音威子府に着き、324レの出発を見送ったあと、駅前の食堂で食事していると、なんと同じサークル仲間の2人が入って来た。

 前日は豊富に泊まったとか。広い広い北海道のこんな駅前食堂で、仲間4人が事前の申し合わせの無い中での遭遇とは面白いと思った。

音威子府を発車する324レ

筬島-音威子府  駅から少し歩いた天塩川に架かる橋に来てみたが、そこは真新しいコンクリート橋だった。前日の乗った321レのこの日はC5787の牽引だった。

 

 この日の夜は夜行急行「利尻」に乗ることだけは決めていた。思案の末、朝から一緒だった彼と天北線に乗り稚内に戻ることにし、2人連れの仲間とはここで別れた。途中幾つかの駅で普通DCや9600牽引の貨物列車と交換しながら北上した。

敏音知   726D(キハ22 20+キハユニ25 7)

中頓別   1790レ

 

 夕方過ぎ、曲渕あたりだったろうか列車の窓越しに夜空を見上げると天の川が広がっていることに気が付いた。東京の夜空では決して見ることの出来ないような、くっきりとした記憶に残るシーンとなっている。

 その夜※は稚内から急行「利尻」の座席車に乗り込んだ。終日一緒だった仲間の一人は寝台車オロハネ10の普通寝台に消えた。

 

※今思う事、それは夜のカットを撮ってあればなぁ、ということ。今ならば当然バルブ大会三昧だったはず。しかし当時は夜に撮ることは全く考えていなかった。そもそもTXフィルムを知ったのは旅行から帰ったあとであり、旅行中はSSフィルムオンリーだった。夜にカメラを出すことなど考えても居なかった。バルブ撮影の想定も無かったので三脚自体を持っていなかったと思う。

最北端?と思ったが、「駅」ではなく「地」とあった。間違っていない・・・。

「交換列車の待ち合わせで〇〇分止まります。」

このアナウンスと共に改札口に走り、入場券を買い、スタンプを押す。

あの頃の旅の思い出です。

 

’74年北海道の旅 ー9-

【1974/9/14】

 紋別から興部の間で撮影できそうな場所が無いのは分かっていたので上興部まで移動した。山に囲まれた静かな駅だった。上下の貨物列車がそれぞれ長時間停車しながら交換するダイヤになっていたので、駅構内の上下側を行ったり来たりと歩き回った覚えがある。

 乳牛が放牧された脇を9600の貨物が行く風景や、9600重連による貨物列車の豪快な発車シーンに出合うことが出来た。

一ノ橋から1623D(キユニ18 3)が到着。

一ノ橋側に少し進むと長閑な風景があった。1691レ(49666)

先ほど構内に到着した1690レには、待機していた前補機(49644)が加わり豪快な発車シーンが繰り広げられた。

1690レの発車のあと、1691レの発車時刻。

山間のこじんまりした駅構内の風景に、給水塔が良いアクセントになっていた。

 

 名寄では321レの到着と発車に立ち会う※。ここで再びC5530との再会となった。発車を見届け後続の急行「天北」で追撃する。途中、美深で321レを追い越し音威子府に先着、再び321レを迎えて乗り込むと、前夜に紋別YHで一緒だった先輩に再会した。朝食時には居ないなと思っていたのだが、この車中で出会うとは本当に神出鬼没。仰るには朝早くYHを発ち、旭川から321レに乗り込んで稚内までの全区間を踏破中とか。

324レが待つ中、321レが名寄に到着。

音威子府に進入する321レ。ホームの端には駅員手入れの綺麗な植栽があった。

 

 さいはての蒸機牽引列車に揺られて北上し稚内へと向かう。乗ったら撮れない、撮ったら乗れないのが鉄道写真旅の宿命だが、宗谷本線の原野を行くC55牽引の旅客列車の絵を収めていないのは残念なところでもあった。

 この日の宿は稚内の当時有名だった別名「カレーYH」であった。その名のとおり、プラ製食器は黄色く変色していた。

 

※ 名寄では324レと321レが交換しているのだが、324レの機関車のスナップが無く不思議で仕方ない。

※ 当時の時刻表を見ると321レは名寄でも音威子府でも停車時間が長い。それは給水作業や点検のためと想像がつくが、撮ったスナップをあらためて見直して気付いたことがある。

 名寄のその写真では機関車は単機の姿となって本線上を少し進んだ場所に停車しており、炭水車の石炭をならしている。また先輪の付近にはアッシュピットと思われる濠がある。別カットでは灰を落としている様子もあった。

 その作業後は再び客車に連結されたのだと思うが、撮影時にカマがそのような動きをしていたという記憶やメモはまったく無い。ついでに言うと、左端のDD14にもカメラを向けていない。

マニア心を汲んでくれるデザインだった。

のちに両駅ともに消えてしまったのは残念。

少し長めの停車時間を利用して抜海駅の入場券を求めた。

近年は利用客の減少で駅廃止の議論が繰り返されている。

 

’74年北海道の旅 ー8-

【1974/9/13】

 急行「大雪5号」は網走行きだが、北見からは機関車を交換してC58牽引の普通列車となることで有名だった。それ故に北見発車を撮りたくて乗り込んだのであり、北見で降りたのだった。

 発車まで約30分の時間があったので、駅を出て広い構内のはずれまで行き場所を決めた。

 シゴハチが出区してきて入換えの後、客車に連結される様子を遠目にし、やがて豪快な汽笛一声での発車。爽やかな朝の空気を揺るがして網走へと向かうその姿。記憶は薄れゆくが撮った写真がそれを伝えてくれる。

1527レ

 この日は名寄本線の9600を訪ねることとし、宿は紋別に決めていた。朝日の差し込む北見駅の待合室で列車を待つ間、TVニュースで天気予報が流れていた。渡島、空知、後志・・・耳慣れぬ地方名が流れている。こうして天気予報を聞いていると、自分がいまその地の人間になったような気がしたものだった。

 遠軽までは普通列車でのオハフ60※に乗って戻り、名寄本線キハ22に乗り換え興部に向かった。

 興部では昼過ぎに上下の貨物列車が交換ダイヤとなっていたので期待して来たのであるが、撮影出来そうな場所は無く紋別に戻った。しかしながら紋別に来てみると、こちらの駅構内は歩道橋が横切っていて写真に入ってしまうという難があった。そんな中、トラ塗りの69620※※に遭遇した。このような塗装はレアではあるものの、ちょっと興ざめだなと思いながらスナップした。

1691レ

「遠」の区名札も誇らしいキャブ。

大正生まれの機関車が今なお活躍していることに感銘を受ける。

 

 夕方に紋別のYHに入ると、今朝ほど「大雪5号」から北見で別れた先輩と再び遭遇したのだった。

 紋別と言えば空港もある地方都市であるが、後年になって線路があっさりと剝がされてしまったのは悔しい。

※ オハフ60は本州では見ない形式のはずだが、車体だけでなくナンバーすらスナップしていない。調べてみると、その側面は座席2区画に狭窓が3枚という配置のようで興味深いが、それを目にした記憶もなく、観察力が甘かったようだ。

 観察力と言えば遠軽での乗り換え時、駅構内もホームの風景すらもスナップしていない。リュックにカメラを仕舞い込んでいて出し入れが面倒だったのか、そんな気すら起こらなかったのか、今となっては残念で仕方ない。今や駅ホームから見えたはずの機関区は消滅し更地になっているのだから。

 

※※ 1975年5月、SLシリーズ切手第4集に9600が登場したが、なんとそれは紋別で会った69620だった。切手自体からはサイズが小さいので番号は確認できないが、郵便局内に掲げられたポスターでははっきりと番号が読み取れた。「切手のこれを撮ったことがあるぞ」と内心誇らしく思ったものだった。なお、切手原画は宮澤孝一氏の撮影によるものと資料にある。



 

’74年北海道の旅 ー7-

【1974/9/12】

 この日は朝から夕方まで塩狩で過ごす。前夜ここのYHを選んだのはもちろん、朝の322レ狙いだった。

 朝飯前に和寒側の駅構内はずれで待つ、一面に霧が立ち込める中を蒸機機関車の吐息とヘッドライトが迫る。ファインダーでもナンバーを読み取れた、「C5530」だった。

322レ 

 322レは5分ほどの停車時間があるので、駅へ急いでスナップ。こちら側は清々しい朝日が差し込んでおり、シゴゴ・サンマルが落ち着いた表情を見せていた。

 

 夕方まで塩狩駅の蘭留方や和寒方で過ごした。雑誌記事で見た蘭留方の塩狩峠を行く列車の風景を探したがよく分からなかった。この日の321レは門デフのC57130、324レはC5787だった。北海道に来て何で門デフに会わねばならぬのか?、何で平凡なシゴナナなのか?と思ったが、ともかく朝にC5530に出合えたのはホント幸運※と思った。

 2連の急行「なよろ1号」 エンジンの調子が芳しくないのだろうか、もうもうとした排気を立てていた。 (蘭留-塩狩

(蘭留-塩狩) 1397レ

 D51954(旭)は胆振縦貫鉄道D5105として生まれ、国鉄に買収された歴史を持つカマ。しかしながら、関東で散々目にして来たあの「パー」付きだったのが残念。

和寒塩狩) 1394レ 

DD51を後部補機に従えたD51866(名)。

 

 夜には札幌へ移動し急行「大雪5号」に乗り込んだ。それに乗るのならば旭川からで良いのだが、遅い時間になるし座席は確保したいとの思いだった。

 札幌のホームでは同じ列車に乗るという先輩一人に出合うことが出来、ボックス席を囲んでの車中泊となった。

 

※ここで前日の塩狩YHのホールでの目撃シーンを検証する。

 この旅で持参していた「SLダイヤ情報」には機関車の運用表や列車ダイヤが掲載されているので、列車ダイヤを開けば夕食時に見た動輪は恐らく323レと推定出来る。

 となれば運用表を開くと、その323レ牽引機は翌朝(つまりこの日の朝)の322レの牽引機である。その仕業の前仕業は当日の午後324レであり、順調に流れればこの仕業に入るので、前日の旭川到着時に見かけたC5530が夕方の323レに入ったかどうかをチェックすれば、翌朝322レがC5530かどうかを判断出来るのだ。

 なんと折角持参していながら資料を読みこなしていなかったことが判る。資料を読み込みし線路端や駅に出向いてチェックさえしていれば、朝もやのC5530との対面は予見できたのである。よって結果からすると、前夜ぼんやりと眺めていたあの動輪はスポーク形ということになる。当時の自分はそんな読み込みも出来ていない未熟者だった。

こんな駅自前?のスタンプが置いてありました。

’74年北海道の旅 ー6-

【1974/9/11】

 宿を発ち登別からD511120牽引の普通列車に乗り込んだ。メンバーは総勢十数人くらい居たのだろうか。

1番線に225レが進入。

2番線ホームの柱の美しさや味わいのありそうな跨線橋に、あの頃に目が行っていればなと今思う。

 

 苫小牧でほとんどのメンバーが降り、えりも岬へ向ったようだとメモがある。残ったのは鉄分が濃いと思われる4人ほど。内二人が次の沼の端で降り、自分と残りが終点岩見沢まで行く。

追分 8276レ?

駅に近づく、何か居ないかと目を凝らす。

居た!煙が上がっている。貨物だ。嬉々としてシャッターボタンを押した。

 

 岩見沢からさらに深川へ、留萌線へ向かう一人とはここで別れたとある。深川では駅構内はずれで留萌へと向かう貨物列車などをスナップした。

深川発留萌行きの専貨6783レが発車して行く。

牽引はD514(深)だった。前照灯にツララ切が付いており目を惹いた。

長く連なるセキの後方からもブラスト音が響いて来る。この6783レは後部補機付きのD51重連だった。

6783レを見送った場所は深川機関区の脇だった。救援車と思われる車両や数両の9600がそこに居た。

 

 深川からさらに塩狩へと向かう。旭川では今しがた稚内から着いたのであろう324レのC5530を車窓から見かけた。初めてみるシゴゴだった。渡道前にはC55稼働状況は分からない、C57が入ることもあると耳にしてしたので少し安心する。

 この日は塩狩YHに投宿。夕食後、YHのホールで休んでいるとガラス扉の向こうの線路を大動輪が下り列車で通過するのを見た覚えがある。ボックス動輪だったかスポーク動輪だったかは定かでないが、その迫力に驚き感動した。

 

※ この旅では小遣い帳的なメモを書いていたので紹介する。昼の食事模様と当時の物価が知れて面白い。

YH1泊2食 1250円

駅弁      300円

ラーメン    250円

パンと牛乳   170円

入場券      30円

手荷物預かり   50円

飲料(ファンタ) 90円

駅ソバ     130円 などの記録がある。

 今のようにコンビニは無いし、自販機だって数少ない時代。どうやって昼を過ごしたのかと記憶を探るが、具体的に思い出せないものの何かしらは口に入れていたようだ。

登別駅での乗車前に入場券を購入したら、30円区間の乗車券との共用だった。

入場券そのものの常備がなく、乗車券に「入場券」のスタンプを押して発行されたことはあるが、こんな形で常備されているのは初めて目にした。

また、東京では30円区間の乗車券は赤地紋であるが、青地紋だったことも珍しかった。