線路端のブログⅡ

高架化されても、高いフェンスに遮られても、やっぱり線路端が好き・・・。

’74年北海道の旅 ー9-

【1974/9/14】

 紋別から興部の間で撮影できそうな場所が無いのは分かっていたので上興部まで移動した。山に囲まれた静かな駅だった。上下の貨物列車がそれぞれ長時間停車しながら交換するダイヤになっていたので、駅構内の上下側を行ったり来たりと歩き回った覚えがある。

 乳牛が放牧された脇を9600の貨物が行く風景や、9600重連による貨物列車の豪快な発車シーンに出合うことが出来た。

一ノ橋から1623D(キユニ18 3)が到着。

一ノ橋側に少し進むと長閑な風景があった。1691レ(49666)

先ほど構内に到着した1690レには、待機していた前補機(49644)が加わり豪快な発車シーンが繰り広げられた。

1690レの発車のあと、1691レの発車時刻。

山間のこじんまりした駅構内の風景に、給水塔が良いアクセントになっていた。

 

 名寄では321レの到着と発車に立ち会う※。ここで再びC5530との再会となった。発車を見届け後続の急行「天北」で追撃する。途中、美深で321レを追い越し音威子府に先着、再び321レを迎えて乗り込むと、前夜に紋別YHで一緒だった先輩に再会した。朝食時には居ないなと思っていたのだが、この車中で出会うとは本当に神出鬼没。仰るには朝早くYHを発ち、旭川から321レに乗り込んで稚内までの全区間を踏破中とか。

324レが待つ中、321レが名寄に到着。

音威子府に進入する321レ。ホームの端には駅員手入れの綺麗な植栽があった。

 

 さいはての蒸機牽引列車に揺られて北上し稚内へと向かう。乗ったら撮れない、撮ったら乗れないのが鉄道写真旅の宿命だが、宗谷本線の原野を行くC55牽引の旅客列車の絵を収めていないのは残念なところでもあった。

 この日の宿は稚内の当時有名だった別名「カレーYH」であった。その名のとおり、プラ製食器は黄色く変色していた。

 

※ 名寄では324レと321レが交換しているのだが、324レの機関車のスナップが無く不思議で仕方ない。

※ 当時の時刻表を見ると321レは名寄でも音威子府でも停車時間が長い。それは給水作業や点検のためと想像がつくが、撮ったスナップをあらためて見直して気付いたことがある。

 名寄のその写真では機関車は単機の姿となって本線上を少し進んだ場所に停車しており、炭水車の石炭をならしている。また先輪の付近にはアッシュピットと思われる濠がある。別カットでは灰を落としている様子もあった。

 その作業後は再び客車に連結されたのだと思うが、撮影時にカマがそのような動きをしていたという記憶やメモはまったく無い。ついでに言うと、左端のDD14にもカメラを向けていない。

マニア心を汲んでくれるデザインだった。

のちに両駅ともに消えてしまったのは残念。

少し長めの停車時間を利用して抜海駅の入場券を求めた。

近年は利用客の減少で駅廃止の議論が繰り返されている。