線路端のブログⅡ

高架化されても、高いフェンスに遮られても、やっぱり線路端が好き・・・。

’74年6月 会津の旅

 6月の声を聞くと思い出すのが’74年の会津への旅のこと。調べてみると今年(2024年)と昭和49年(1974年)は曜日回りが同じと判った。

 50年前のきょう6月14日(金)、品川駅で購入した「福島・会津磐梯ミニ周遊券」を手に上野から夜行急行「ばんだい6号・あづま2号」で仲間と一緒に出発している。

 初めての東北地方、というより宇都宮以北に足を伸ばすことすら自分には初めてだった。周遊券というものを買うのも初めてだった。

 金曜の夜ということで列車は混雑しており、仙台行き編成のデッキ部に隙間を見つけて仲間と座り込み、初めての地への緊張感とワクワク感で車中を過ごした。未明の郡山で会津若松行き編成に乗り換えると、空席を見つけて座れたような気がする。

 

6月15日(土)

  早朝の会津若松に着き、そのまま只見線に乗り継いで会津宮下に着いたのは7時過ぎだったか。駅からはサークルの先輩の先導で延々と歩いて有名お立ち台に辿り着き、C11の貨物列車を撮影。その1本を撮ると再び只見線会津若松に戻っている。

 会津宮下の駅ではこんなキップを記念に購入したようだ。

 

 会津若松から喜多方へと回り、サークルメンバー全員が揃ったところで日中線に乗り込むこととなった。

 「日中走らぬ日中線」の夕方1本目の列車のそれは貨車も連結した混合列車だった。牽引するC11は、特徴ある後ろ姿が九州から来たカマであることを示している。(早岐機関区所属当時は「さくら」牽引の仕業にも就いていたことを後年になって知る。)

 途中の会津加納では機関車がその貨車の入換え作業で一旦離れて再度連結する様を見た。終点熱塩では機関車がそれまでの逆向きから正面向きとなる喜多方寄りに機回しする様子も見た。

 日中線内は無人駅のため、車掌氏が乗車券発行に忙しい。手元を見ると東京の国電区間で見る地図式とは異なる様式だったので最低運賃区間を所望し、コレクションに加えることにした。熱塩までの往復乗車を済ませ、この日は全員で喜多方泊。

 

6月16日(日)

 朝、現地にて流れ解散。

 自分は喜多方から会津若松に出向き、駅構内でのスナップを楽しんだ。例えば下り普通列車のこんな着発シーン。

 11:52 郡山発新潟行き229レがED77牽引で1番線に到着。荷物車を組み込んだ7両編成だ。

 郡山方2両は会津若松での切り離しなのか、構内作業に勤しむC11が引き上げて行った。オハフ61とオハ61だろうか。

 新潟へと向かう229レは5両の身軽な編成となり12:17の発車を待っている。牽引機はここからはDD51に変わった。そんな様子を2番線に停車中の客車(226レ)からスナップ。

 なお、229レ到着の1分前、11:51には新津発郡山行き226レがここ2番線に到着しており、上下の客車列車で賑わう昼時だった。

 こちらはキハユニ26を組み込んだ3両編成。会津線普通列車だろうか。発車を待つ時間もゆったりと流れていたように感じる。

 

 気動車のアイドリング色がそことなく聞こえ、時折発せられる電気機関車の甲高い汽笛に、入換作業中の蒸気機関車の小気味よい汽笛。ホームには多くの乗客の騒めきと、そこに流れるアナウンスとが交錯する会津若松駅のひとときだったように思う。

 

 午後は帰りの急行の座席を確保したく喜多方へ一旦戻り、始発の急行「ばんだい4号」に乗り込んで帰京した。

 

 あれから50年経ち、細かい部分での記憶は曖昧になっているが、両日に撮ったスナップを通して19歳のあの日の記憶が刻まれている。

(2024/6/14 記)