線路端のブログⅡ

高架化されても、高いフェンスに遮られても、やっぱり線路端が好き・・・。

地平時代の京浜鶴見

 先般、遠来の旧友らと鶴見で逢い、学生時代のテツな昔話に花が咲いた。それは50年に及ぶ互いの空白の時を埋めるに余りある濃密なひと時だった。そんな至福の宴を終えてなお鶴見駅への途中、国鉄鶴見駅東口一帯と京急鶴見駅の高架化前の話となった。

 自分の記憶を再確認するべく、地平時代の京浜鶴見駅付近の様子を古い写真から拾ってみた。

(1972/1/3)

 右は国鉄鶴見駅ビル左は京浜鶴見駅ビル。国鉄鶴見駅東口から第一京浜国道へと向かう道を京浜急行線が横切っている。その踏切は踏切警手によるワイヤー式の遮断機だった。

 列車は三浦海岸発京成成田行き「快特 成田山」。京浜、都、京成の3社直通は当時珍しかった。

(1976/6/10)

 京浜鶴見駅は東西に改札口があり、西口は国鉄側に東口は旧東海道でもある鶴見銀座商店街に面していた。商店街アーケードの下に洋菓子店「ありあけ」の文字が見える。今や横浜の定番みやげとなった「ありあけのハーバー」はここ鶴見が発祥。商店街中程には和菓子部門の有明製菓があったと記憶する。

 列車は都営5000による急行小岩行き。ダイヤ改正によりそれまで川崎止まりだった都営線からの急行の何本かが新町まで延長南下して、折り返し上るようになったもの。

(1977/6/4)

 京浜鶴見駅ビルは国鉄鶴見駅ビルよりも先に開業したと記憶する。小学校低学年のころ、ビル内のレストランで初めてお子様ランチを食べた思い出がある。ケチャップライスに立つ日の丸の旗に心が弾んだものだ。

(1977/11/8)

 高架化工事が始まると駅ビルが取り壊された。国鉄鶴見駅ビルの左側空間には、今では高層の複合ビルが建っており景観は一変している。鶴見駅ビル自体も改築され姿が変わっている。

 写真の旧鶴見駅ビルは小学4年生の頃の開業と記憶する、開業時は大いに賑わい「子どもたちだけで遊びに行ってはいけません。」と朝礼で先生から注意されたものだ。

 画面の左側、東海道線線路と京浜急行に挟まれた一角には貨物引込線があり、黒貨車への貨物の積み下ろしが見られた。トラックやリフトが行き交い立ち入り禁止の札が掛かっていたが、実質上生活道路となっており作業の無い時は自転車で横切っても注意されなかった。

(1979/7/18)

 東口に並ぶ券売機。自社及び都営線、横浜乗換の相鉄・東急線、横浜及び品川乗換の国鉄線と行き先別になっていたことが判る。

 この後、高架化され既に四十数年経つ。自分自身も鶴見を離れて四十年弱、そんな遠い遠い過去の思い出となってしまった。

(2024/2/15 記)