線路端のブログⅡ

高架化されても、高いフェンスに遮られても、やっぱり線路端が好き・・・。

’75年 西への旅 ー8-

【1975/2/27】

 最終日は関西本線に初乗車し名古屋から東海道線をひたすら乗り継いで帰宅するコースとなっている。

 乗車する鶴ケ丘は阪和線であり、手元の周遊券の経路外にあるので天王寺までの切符を求める必要があった。窓口氏に「天王寺1枚」と告げるにあたり、東京人と気付かれるのが恥ずかしく聞きかじりの関西風イントネーションで緊張気味に発音してみたが、恐らく瞬時に見破られたであろうと思う。

 天王寺から奈良へ出て、急行「かすが1号」で名古屋に向かった。途中、蒸機時代に名を馳せた加太越えを堪能したがそこは雪景色だった。

                            (1975/2/27 伊賀上野

 伊賀上野に到着すると、近鉄マルーン色の小型電車が見えた。少し停車時間があるようなのでホームへ急ぎ、貴重なスナップが出来た。

 

 名古屋では暫く滞在し、名鉄近鉄の駅を覗いたり、国鉄の北陸からの急行や中央西線の特急や普通列車などをスナップ出来た。中でも北陸方面からの列車は前面に雪を纏ってやって来ていた。

 名鉄新名古屋は中間駅なので停車時間が短い。停車すると両側扉が開き、下車と乗車が一斉に行われる様に目を奪われた。           (1975/2/27 新名古屋

 急行名古屋行きが到着。方向板を差し替える車掌氏、和服姿のご婦人に応対する乗務員氏、続々と改札口に向かう乗客。ターミナル駅は慌ただしい。(1975/2/27 近鉄名古屋

 金沢からの急行「兼六」が到着した、前面は雪で真っ白だったので最後部の愛称板で兼六の文字を確認。   (1975/2/27)

1009M 「しなの6号」 名古屋発長野行き クハ381-15    (1975/2/27)

 振子車体の381系は重心を下げるために屋根上にあるべき冷房装置が無い。外見的に物足りないような、反面その細身が魅力的な美しさにも感じた。

 中央西線には70系が健在だった。  クハ76 027(名シン) (1975/2/27)

 クハ155-19(名カキ)                  (1975/2/27) 

 東海道線豊橋-大垣間に快速が設定されており、ブルー快速と呼ばれていたように思う。湘南色化された155系もその任にあたっていた。

 

 名古屋からは浜松で列車を乗り継ぎ、静岡から急行「東海4号」に揺られて横浜に戻り旅を終えた。

 今回の旅、北九州では雪で散々になり、山陽路でも思ったほどの成果は上げられず、大阪に至っては「音戸1号」の悪夢に見舞われた。関西の鉄道見聞では環状線を駆け足で廻ったに過ぎず、最終日は在来線の乗り継ぎで疲れてしまい、這う這うの体で帰って来たという感じで終わった。

やれやれお疲れ様でした・・・。(ホント疲れた。)