線路端のブログⅡ

高架化されても、高いフェンスに遮られても、やっぱり線路端が好き・・・。

’75年 西への旅 ー5-

【1975/2/24】

 この日で北九州での滞在を終え、山陽線の名撮影地である光-下松間を訪ねることとした。

 戸畑から急行「玄海1号」に乗り込む。同じ乗るならと今や非営業となってしまったサハシを選んだ。ビュッフェ車の椅子に腰かけての山陽路の車窓は優雅な気分を味わえた。

 11時ころに光に到着。到着前に車内から見たところでは下松側へ1キロ半ほど戻ったところがポイントと思えた。

 しかしいざ来てみると、分厚い堤防が続きそれがどうしても視界に入るし、国道は車がひっきりなしに通り、のんびりと撮影する気分ではなかった。期待が大きかっただけにちょっと残念、それでも場所を変えながら4時間ほど過ごして急行「山陽7号」で岩国に向かった。錦帯橋近くの岩国YHに泊。

33M 「みどり1号」大阪発大分行き                   (1975/2/24)

1004M 「つばめ6号」西鹿児島発岡山行き           (1975/2/24)

206M 「玄海2号」 博多発岡山行き              (1975/2/24)

平行する道路上に大型車が無く、サハシとサロの組み込みが判る。

1M 「なは」 大阪発西鹿児島行き                (1975/2/24)

1レ、1M、1Dと聞くと同じ列番でも格の違いを感じさせる。

1D 「かもめ」 京都発長崎・佐世保行き                 (1975/2/24)

 長崎行きはキシ・キロ組み込みの7両編成、一方の佐世保行きはキロ組み込みの6両編成で、小倉にて分割併合する。

 分割併合ならば佐賀なり肥前山口で良さそうなものだが、下りの場合は小倉で分割後長崎編成が博多経由、佐世保編成が筑豊本線経由となるのだった。そのため小倉から黒崎の間と、原田から鳥栖、佐賀、肥前山口の間は両編成が続行するという、面白いスジになっていた。