【1974/9/18】
函館から青函連絡船12便に乗り早朝に青森着。
後続の便はと言えば、いわゆるゴールデンコースである。札幌を20時頃発ち連絡船は2便で青森着4時30分。4時50分発の「はつかり」に乗れば上野着13時台というもの。
そのスジに乗って来るという仲間3人を待ち受ける。2人は「はつかり」へ、1人は「みちのく」へと乗り込む様子を見送る。自分は来た時同様に、上野まで急行列車自由席を乗り継いで行くことにしている。
時間を持て余しホームをブラブラする。出航準備だろうか渡島丸の姿が見えた。
考えてみると連絡船の姿を落ち着いて、見ることも撮ることもなかった。
連絡船への乗り換え口を走り、乗り込めば大広間のスペース確保に走る。車両の積込など外の様子を見に行こうという余裕は無かった。
急行「しもきた」が野辺地に着くと、南部縦貫鉄道のレールバスがチラリと見えた。
これがこの旅の最終カットとなった。(南部縦貫鉄道へはこれから4年後に訪れた。)
盛岡から乗った急行「もりおか2号」は上野までは常磐線経由となる。前夜からの疲れかウトウトしていた時間が長かったようで、原ノ町も平も確かな記憶がない。上野を目指す旅の最後の行程は、どことなくほっとする時間を持てたような気がした。と同時に楽しかった旅が終わってしまうこと、夏休み明けのレポート提出が待っていることの現実が交互に頭に浮かんでは消えた。
20:30分上野に着いた。「う~えのぉ~、う~えのぉ~」のアナウンスが流れる。ドアが開きホームに降り立った途端に、生暖かく澱んだ東京の空気が鼻をついた。ああ、きのうの札幌は爽やかな風が吹いていたのにな・・・、と思った。札幌から26時間半、そして13日間という長い長い旅が終わった。
13日間共に旅した周遊券。(学割7600円)
(おわりに) 数々の思い出を記録したネガが手元にあるが、悲しいことに多くのコマがビネガーシンドロームに侵されてしまっている。強烈な酢酸の臭いを発し無残な姿となってしまったコマは悲しい限りだ。保管が甘かったことが原因でもあるが、あの日から50年に近い年月が経過していることを実感する。
そんなネガのひとつひとつのコマから蘇る記憶は19歳のあの時のまま、すっかり老体となってしまった自分がここに居る。そして時折浮かんで来る仲間たちの顔は当然あの時のままだ。