線路端のブログⅡ

高架化されても、高いフェンスに遮られても、やっぱり線路端が好き・・・。

門型鉄塔

所用で鶴見に出掛けた日、時間繋ぎに鶴見線をちょっと散歩。

大昔に見た鉄塔の情景を訪ねた。

天を衝くかのような送電線鉄塔。その形態から門型鉄塔と呼ばれるそうな。

初めて見たのはここ鶴見線、子どもの頃は架線柱が送電線を兼ねているのかと思っていた。

武蔵白石駅から安善駅を望む。門型鉄塔が林立し、あたかも蜘蛛の巣を張ったかのように視界を覆う。

安善駅ホームからもすくっと立ち上がる鉄塔。

工業地帯・鶴見線特有の情景かと思っていたが、東急池上線西武多摩川線でも見かけたのは後のこと。その設置場所の確保が難しい場合に、工業地帯・住宅地を問わず鉄道敷地上を利用することを知った。

(2022/6/12 武蔵白石、安善)

鶴見線沿線の工場群が活気に満ちていた頃、門型鉄塔も誇らし気に見える。

(1977/4/3 武蔵白石)

 

また 四季島

この日も暇つぶし列車(笑)を出迎えに多摩川橋梁へ。

しかしながら曇天なので、変化球を投げることにしましまた。

 およそ鉄道車両とは思えない形状の窓が並んでいますが、唯一乗務員室の四角い窓が取り残されている感あり。

黒い扉は異空間へのメインゲート。

 

 この日も先日のキッズが来てましたが、さらには幼児を連れたママたちも。

そのママたちも通過時刻を承知している模様で、「あと〇分だよ」と言ってます。

事前の233系が迫って来ると、子どもたちと一緒に手を振る仕草。運転士もタイフォンで応えます。先日に続いて線路端の様変わりを実感した日でした。

(2022/6/5 日野ー立川)

 

 

 

四季島

四季島が中央線を上って来るというので、いそいそと多摩川橋梁へ出かけた。

中央線を下る姿は何度か見て来たけれど、上って来るのは珍しいと思った。

(2022/5/22 日野-立川)

土手に三脚を立てて構える御同業は数名。

確かに熱を入れて撮る車両ではないし、暇つぶしというところか。

 

その代わりのいうか、小学2生くらいの子どもがタブレット持参でキャッキャしていた。

 

正確な通過時刻は分からないものの、上野着時刻から逆算して目星を付けて行ったのだが、タブレットの子どもは通過時刻を知ってる様子で「あと〇分で来る!」と会話していた。

 

ネットで運転日と時刻を把握し、大袈裟なカメラではなくタブレットでパチリ。それを小学生が実践している・・・。すっかり過去の遺物となった自分を実感した。(苦笑)

 

三菱ドック踏切

この踏切の存在を知ったのは今年になってから。

横浜のこの場所に「三菱ドック」の名が残っていたことに感動です。

横浜~桜木町間の高架線の下、ここは高島単線というのですね。

踏切の脇にはこんな案内板があります。

曰く、この踏切の先には横浜船渠会社の正門があったと。

そう京浜東北線に乗って横浜を出ると、右手に東急東横線が近づき高島町の駅。

海側には倉庫や工場、そして造船所という遠い昔のあの景色が浮かびます。

 あの造船所一帯の風景や桜木町から先、万国橋あたりの倉庫群や艀の風景を見ていて。

「港ヨコハマと言ったって全然観光地らしくない」と嘯いていた当時の自分。

 それが平成の時代を経て「みなとみらい」として生まれ変わったそれを見ながら「きれいになったけれど、何か地に足が付いていない感じ。造船所や運河の艀の風景こそが横浜」と、今度はまた勝手なことを言っている自分が居る。

(2022/5/2 記)

 

 

 

ロクイチ

初めて会ったのは中1の冬、「あっ、茶色い機関車だ!」と思った。

2度目に会ったのは大学1年の冬、その茶色い機関車が寝台急行を牽いて来た時。

「ふーん、茶色い機関車でも牽くことがあるんだ。」と思った。

茶色い機関車が牽く寝台急行として印象に残った。

 

大学3年の冬、撮影地で知り合った人はゴハチフリークだった。

その人に「ロクイチの牽く寝台急行を見たことがある」と伝えると、「うそだろう、何かの間違いではないか」と言われた。

 

彼に依れば、通常この列車を牽くのは関西の機関区のカマであり、東京の機関区のカマが牽くことは無い。しかもそれがロクイチとは。きっと何かの事情での代走だろう。それにしても珍しい。

 

そんなことを聞いてから、自分にとっての大切な思い入れのある機関車となった。

大昔の友人との会話の思い出。

(あのメーカーのミニチュアプレートです)

’74年北海道の旅 ー13-

【1974/9/18】

 函館から青函連絡船12便に乗り早朝に青森着。

 後続の便はと言えば、いわゆるゴールデンコースである。札幌を20時頃発ち連絡船は2便で青森着4時30分。4時50分発の「はつかり」に乗れば上野着13時台というもの。

 そのスジに乗って来るという仲間3人を待ち受ける。2人は「はつかり」へ、1人は「みちのく」へと乗り込む様子を見送る。自分は来た時同様に、上野まで急行列車自由席を乗り継いで行くことにしている。

 時間を持て余しホームをブラブラする。出航準備だろうか渡島丸の姿が見えた。

考えてみると連絡船の姿を落ち着いて、見ることも撮ることもなかった。

連絡船への乗り換え口を走り、乗り込めば大広間のスペース確保に走る。車両の積込など外の様子を見に行こうという余裕は無かった。

 急行「しもきた」が野辺地に着くと、南部縦貫鉄道レールバスがチラリと見えた。

これがこの旅の最終カットとなった。(南部縦貫鉄道へはこれから4年後に訪れた。)

 

 盛岡から乗った急行「もりおか2号」は上野までは常磐線経由となる。前夜からの疲れかウトウトしていた時間が長かったようで、原ノ町も平も確かな記憶がない。上野を目指す旅の最後の行程は、どことなくほっとする時間を持てたような気がした。と同時に楽しかった旅が終わってしまうこと、夏休み明けのレポート提出が待っていることの現実が交互に頭に浮かんでは消えた。

 

 20:30分上野に着いた。「う~えのぉ~、う~えのぉ~」のアナウンスが流れる。ドアが開きホームに降り立った途端に、生暖かく澱んだ東京の空気が鼻をついた。ああ、きのうの札幌は爽やかな風が吹いていたのにな・・・、と思った。札幌から26時間半、そして13日間という長い長い旅が終わった。

13日間共に旅した周遊券。(学割7600円)

 

(おわりに) 数々の思い出を記録したネガが手元にあるが、悲しいことに多くのコマがビネガーシンドロームに侵されてしまっている。強烈な酢酸の臭いを発し無残な姿となってしまったコマは悲しい限りだ。保管が甘かったことが原因でもあるが、あの日から50年に近い年月が経過していることを実感する。

 そんなネガのひとつひとつのコマから蘇る記憶は19歳のあの時のまま、すっかり老体となってしまった自分がここに居る。そして時折浮かんで来る仲間たちの顔は当然あの時のままだ。